【武藤敬司の軌跡(19)】武藤敬司の凱旋試合から5か月後の1990年9月、今度はグレート・ムタを日本で披露することになった。

 最初は大変だったんだよ。会社は「米国でオーバーしたグレート・ムタをやってくれ。相手は越中詩郎のサムライ・シローだ」って安易に組むけど…。だって米国に「武藤敬司」は存在しないんだよ。「グレート・ムタ」だけだから。この時まで武藤敬司とムタは同じだったんだ。衣装を変えているだけで。

 それで日本最初の試合になった9月7日の越中戦は消化不良になっちまった。実際やってても「これ、何だ?」ってずっと自問自答していたんだよ。俺自身も何か違ったものを求めている中で、ムタ2戦目になった9月14日の馳浩戦で“生まれた”んだよ。

顔面血だらけの馳浩(下)を絞める(90年9月)
顔面血だらけの馳浩(下)を絞める(90年9月)

 大暴れして馳を大流血させた試合。最後はレフェリー暴行での反則負けから担架に乗せた馳にムーンサルトだ。あの日からムタが“化身”になったんだよ。二面性が生まれた。あの試合があったからグレート・ムタが、その後も存在しえたっていうかさ。「2度目の誕生の瞬間」って言ってもいいよな。

 で、ここからしばらくはムタが武藤をリードすることになるんだよ。92年には、先にIWGPヘビー王座のベルトも取った。92年5月に武藤敬司が長州(力)さんに挑戦して負けたけど、8月にはムタが倒して取ってるんだよ。

 この試合は今だったらえらいことになっていたと思うよ。猪木イズムなのか、ムタが消火器をまいたんだよ。あれはムタの急な思い付きなんだけど、消火器って火を消すために酸素をなくすんだよね。あれで長州さんが呼吸できなくて死にそうになってリングサイドの人が苦しんでたらしい。ひでえことするよな、ムタは。入場の時「あそこに消火器があるな」とは思ってたみたいだよ。でもあんなにすごいことになるとはな…。

 ムタが武藤の先を走るジレンマ? そんなものないよ。当時は年間250試合やっていて、日々一生懸命生きるので精いっぱいだ。考える余裕もなかったから。

 そういえば、当時の新日本のビジネスで、VHSビデオで「闘魂V」っていうのをテレビ朝日が中継しない地方の試合を中心に比較的低価格で売るようになったんだよ。で、この「グレート・ムタVS長州力」がメチャクチャ売れてね。ああいうのってロイヤリティーが来るからさ。確か500万円くらい入ったんじゃないか。1試合だけで。それから「闘魂V」は7割方、俺の試合になってアメリカ遠征まで追いかけてきてたよ。

 そしてムタはついにアントニオ猪木さんとの一騎打ちにたどり着くことになる。でもその前に…。

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