【プロレス蔵出し写真館】昭和を代表するスーパースター、「国民的スター」だったアントニオ猪木が、ついに逝ってしまった。

 晩年は難病の「心アミロイドーシス」に侵されていることを公表し、必死に病と闘う姿を隠すことなく自身のユーチューブでさらけ出していた。

 プロレスラー・アントニオ猪木は、スカウトされた師匠の力道山にデビュー前から目をかけられ、大いに期待され、それにたがわぬ成長を見せた。海外武者修行を終えて帰国する予定だったが、やむなき事情で日本プロレスを飛び出し東京プロレスに参加。団体がうまくいかず復帰するも、1971年に会社乗っ取りの汚名を着せられ解雇され、新日本プロレスを設立した。

 新日本のエースとなった猪木は、異種格闘技戦や数々のビッグイベントで世間の目をプロレスに向けさせた。名勝負、好勝負は数多く、世代によってベストマッチは様々だろう。

 名勝負の中でも報道陣泣かせだったのは、今から35年前の87年(昭和62年)10月4日、山口県下関市の巌流島で行われた対マサ斎藤戦だった。
 
 無観客で開催、お互いのプライドがルール、そして、いつ始まるのかは明言されず、〝夜明けと同時にゴング〟と言われた、難儀な試合だった。

 そのため、東スポをはじめ専門誌各誌は大プロジェクトチームを編成し、通常の取材とはおおよそ段違いの人員を割いた。
 
 2日に会見が行われ、翌3日には多くの報道陣が巌流島入りした。試合が明け方始まってもいいように、島にテントを設営して宿泊。

 東スポと専門誌「ゴング」はヘリコプターまでチャーターし、試合が始まったらすぐ飛び立てるよう準備。ヘリで上空からリング上を狙うという試みは、プロレス取材では当然、初めてのことだった。また、東スポは島が見渡せる、約3キロ弱離れた北九州市の風師山(かざしやま)からも超望遠で狙っていた。

 4日になり猪木が午後2時31分、斎藤は3時50分に島に上陸した。そして、4時半にゴングが鳴った。

 試合のハイライトが訪れたのは90分が経過して、辺りが薄暗くなってからだった。猪木が斎藤をヘッドロックに決め、じりじりとかがり火に近づき、斎藤を叩きつけた(写真)。倒されたかがり火が2人を照らす、なんとも幻想的な光景が広がったのだった。

 試合は2時間5分14秒、猪木の裸絞めに斎藤が崩れ落ち、TKOで猪木が勝利を収め、長い長い取材も終わった。

 ところで、13年にプロレス写真記者クラブ創立30周年記念報道展が開催され、猪木がゲストで来場した。猪木はこの写真を見て「あの暗い中でよく写ったね」と素直な感想を語ってくれた。

 猪木と言葉を交わしたのは、この時が最後となってしまった。

 猪木には夢を見させてもらった。謹んでご冥福をお祈りします(敬称略)。