【取材の裏側 現場ノート】阪神の糸井嘉男外野手(41)が今季限りで現役を引退することが分かった。今月4日に球団と自身の進退について話し合いの場を持つことが明らかになった背番号7は、その後の話し合いを経て熟考の末、12日までに引退を申し入れたもよう。近日中に引退会見を行う見込みだ。そんな糸井を、日本ハム時代から担当した本紙虎番記者が「超人」と呼ばれた男への思いをつづった。

 そもそも糸井は近大から2003年ドラフトで日本ハムが自由獲得枠で獲得した即戦力投手。だが、プロ入り後の2年でまったく結果を残せず、06年シーズン中に打者に転向した。これは本人が望んだものではなく、球団が“ラストチャンス”として用意したものだった。

 当時の日本ハム・高田繁GMが糸井に「お前は他の野手とは何万スイングも遅れている。遊んでいるヒマはない」と伝えたのは有名な話。併せて「2年やる」とも伝えられた。逆に言えば2年で野手の可能性を見せられなければ“クビ”になるということ。当時、25歳。もう後がなかった。

 野手としての練習をスタートした糸井の練習量は人間の“限界”そのものだった。「もう、死ぬんじゃないかって何度も思った。打つだけじゃなく守備、走塁…すべてがイチからでしたから」。日本ハムの二軍寮・鎌ケ谷ではある“糸井伝説”が言い伝えられている。

 当時は二軍戦に出場し、居残り練習→食事→夜間練習が日課。当時、二軍打撃担当だった大村巌コーチも“生き残り”をかけた糸井に昼夜を問わず付き合った。夜間練習は日付を越え、2~3時間ぶっ通しでバットを振り続けることも…。練習終了時には、まったく指がバットから離れず、両手の指を一本一本、引きはがさなければバットが手から離れないのが当たり前だった。

 大村コーチもまた、そんな糸井に情熱的な指導で向き合った。もちろん気力の限界にも直面する。当時の関係者によれば、夜間練習で「もう無理!」と音を上げた糸井に「おまえ、クビになってもいいのか? 今のままならクビだぞ。どうする?」と切り出し「じゃあ、終わりな。クビになっても俺は知らないから」と、糸井を突き放したという。「待ってください。分かりました。やります。やりますから…」。糸井はそのたびに涙を流して懇願し、泣き叫びながらバットを振ったという。

 当時の鎌ケ谷では、深夜に糸井の奇声と大村コーチの怒号が交わる声が響き渡るのは日常茶飯事。当時を知る日本ハム関係者は「ウチの(鎌ケ谷寮の)室内の周りに民家がなくてよかったよ。近所迷惑で絶対に通報される(笑い)。隣の寮で寝てても2人の奇声はしょっちゅう聞こえてきたからね」と言うほど。そのまま夜明けを迎えることもあり、文字通り24時間野球と向き合っていた。翌日は寮で仮眠を取り、午前8時過ぎには二軍戦のグラウンドへ。上半身に着るシャツは汗をかくたびに着替えたが“徹夜”をした日は、ユニホームのズボンやスライディングパンツは前日のままで、グラウンドへ飛び出して行ったこともあったという。

 尋常ではないスピードで“遅れ”を取り戻した糸井は数年後、日本ハムでレギュラーを獲得。命がけの努力は報われた。糸井本人も「あのころは精神的にも、肉体的にもしんどかった。本当、朝も晩もないぐらいにやりました」と当時を振り返っている。

 13年以降、オリックス、阪神でプレーするころには、筋骨隆々の肉体から「超人」と呼ばれ、明るいキャラクターとユニークな発言で人気を博した。ただ、本当に常人の域を超えていたのは、あのころ…。記者は糸井を球界一の“ド根性の人”だと思っている。「クビ」の恐怖におびえ、夜も眠らずにバットを振った日々を乗り越え、自分の意思で“引き際”を決めることができた。誰からも認められる、立派なプロ野球人生だったと思う。

(元日本ハム担当、現阪神担当・赤坂高志)