【豊田誠佑 おちょうしもん奮闘記(28)】星野監督就任2年目の1997年、ドラゴンズは大きな節目を迎えた。本拠地をナゴヤ球場からナゴヤドーム(現バンテリンドーム)に移転。前年2位から新しいホームで88年以来の優勝を目指すはずだった。
ところがそれまでのナゴヤ球場からナゴヤドームに変わったことで、野球の質が大幅に変わってしまった。ナゴヤ球場なら少々のビハインドでも一発攻勢で逆転が可能だったが、広いドームではなかなか本塁打が出ない。96年は山崎武司が39本塁打でホームラン王に輝き、大豊が1本差の38本塁打で中日はリーグトップの179本塁打を記録したが、ドーム元年の97年は山崎が19本塁打、大豊が12本塁打と半分以下に落ち込み、チーム本塁打数は115へと激減した。
ホームランが出ないなら機動力でかき回したいところだが、この年の主力野手は立浪、パウエル、ゴメス、大豊、山崎、中村らで足を使える選手がほとんどいない。1イニングでヒット3本出ても走者がホームまでかえってこれないこともあったから星野監督は「うちの打線は各駅停車か」といつもぼやいていた。
そして怒りの矛先はサードベースコーチの俺のところにも向けられた。一死二塁の場面でレフト前ヒットが出てもランナーの足が遅いから俺が三塁で止めると星野監督は「なんでホームにかえさないんや!」と大激怒だ。「あんなにスタートが遅れたら手を回せませんよ」と説明しても星野監督は納得してくれない。弱いチームの典型的なパターンなんだけど、走者を止めて一、三塁になるとパウエルが6―4―3、ゴメスが5―4―3の併殺打と最悪の結果に…。思い切って手を回して本塁に突入させるとベース手前でタッチアウト! やることなすことすべてうまくいかない。ホーム突入に失敗してアウトになるとドームの満員のファン全員が俺を見ている気がして、本当にすごいプレッシャーだった。
結局ドーム元年のドラゴンズはチーム打率最下位と打撃不振が最後まで尾を引き、92年以来5年ぶりの最下位となった。星野監督はシーズン終了後、大豊と捕手の矢野輝弘(現・阪神監督)をタイガースに放出。関川浩一と久慈照嘉を獲得して広いドームに対応できる機動力野球へのモデルチェンジを図った。
チーム大改革の波は俺にも押し寄せてきた。最下位になったということでコーチ陣も大幅に刷新され、俺は一軍外野守備走塁コーチを解任となり編成部へ回されることになった。ドラゴンズ入団以来、選手、コーチとずっと現場で働いてきただけに正直、ユニホームを脱ぐのは寂しかった。だけど球団は新しい仕事を与えてくれたんだ。ドラゴンズのためにも頑張って働こう。ナゴヤドームのロッカーを整理しながら、俺は気持ちを切り替えていた。
☆とよだ・せいすけ 1956年4月23日生まれ。東京都出身。日大三高では右翼手として74年春の選抜大会に出場。明治大学では77年の東京六大学春のリーグ戦で法政のエース・江川から8打数7安打と打ちまくり首位打者を獲得。「江川キラー」と呼ばれるようになる。78年オフにドラフト外で中日ドラゴンズに入団。内外野をこなせるバイプレーヤーとして活躍し82、88年のリーグ優勝に貢献した。88年に現役を引退後はコーチ、スカウト、昇竜館館長を務め2014年に退団。現在、名古屋市内で居酒屋「おちょうしもん」を経営している。












