【越智正典 ネット裏】2018年が明けた4日午前5時すぎ、星野仙一が三重県津で逝った。70歳。すい臓がん。17年11月28日東京、12月1日大阪、12月10日に岡山で殿堂入りの祝賀会が開かれたが、つらいこの病からいって最後の気力をふりしぼって迎賓し、登壇し、謝意を述べたといえる。

 岡山では、星野は「今日はわたしの大切な恩人もお見え下さいました」。500人の来賓に気遣ってそのひとの名前を言わなかったが、思えば、将の品格を教えてくれた人生指南の郷土の先輩に別れを告げていたのだった。三会場での当日、からだじゅうが痛かったであろう。先輩はいう。「見事な男だった」。

 夏、星野はちょっとした仲間から携帯電話がかかってくると「いま軽井沢じゃ」と言っていたが実は津にいた。

 1995年3月26日、星野の長女千華さんが津で立派な病院を開いている院長先生の長男と、三重大学医学部第一外科教授、川原田嘉文、和子夫妻の媒酌で名古屋城西堀端のホテルキャッスルで華燭の典を挙げた。

「高砂」の席に三重大学名誉教授、松阪市民病院院長、水本龍二、春海夫妻。新郎の恩師、東京医科大学病院外科教授、加藤治文。津市市長近藤康雄。「末広」の席に、昔なら備前岡山藩藩主の池田隆政、夫人「厚子さま」。昭和天皇の皇女、昔のように言うと内親王である。「羽衣」に岡山ロータリー総代、岡山城烏城まつりの武者行列の鉄砲隊隊長、延原正。鶴岡一人。藤田元司。近藤貞雄。高田繁。「銀」に田淵幸一。山本浩二…。

 縁は不思議である。千華さんの妹、次女和華さんがやがて、医学学究の新郎の弟さんと結婚するのである。院長先生夫妻はよく出来た方で、婚約が整うと「星野家がなくなっては申し訳ない。息子を養子にして貰えんやろか」。夫君もよく出来たひとで男の子が生まれると「仙太」と命名した。星野仙太である。東京での祝賀会の翌日の「デイリースポーツ」は、おじいちゃんに花束を贈る仙太くんの写真を掲載している。先年、星野は芦屋に家を建てたが仙太くんの部屋を作り泊まりに来るのをたのしみにしていた…。

 星野はこうして、今では男ざかりの二人の名医にむずかしいこの病気に尽くせるだけ尽くせる治療を受け、二人の娘さんにいたわられ、仙太くんと華帆ちゃんに励まされながら、97年、51歳で亡くなった夫人扶沙子さんのもとへ、母敏子さんのもとへ、明治大監督“御大”人間力の島岡吉郎のもとへ旅立って行った。5日通夜、6日家族葬。仙台では球場前に献花台が設けられた。ファンは球団用意の白いカーネーションを供えた。夫人急逝の97年春、開場したばかりのナゴヤドームに向かう星野の車が旧愛知一中、旭丘高校前に差しかかると満開の桜が風に誘われていた。星野は「散るなあー。散って逝くなあー」。=敬称略=(スポーツジャーナリスト)