【赤坂英一・ 赤ペン!!】毎年、こどもの日が巡ってくるたびに松井秀喜氏を思い出す巨人ファンは少なくないだろう。7年前の2013年のこの日、松井氏は東京ドームで巨人戦の試合前、長嶋終身名誉監督と国民栄誉賞授与式に臨んだのだ。

 テレビで生中継されている中、松井氏は印象的なスピーチを行った。

「私は、この賞を頂き、大変、大変光栄ではありますが、同じくらいの気持ちで恐縮しています」

 そう切り出すと、先に受賞した衣笠氏、王・現ソフトバンク球団会長のような世界記録を作っていない。同時受賞の長嶋さんのように、日本中のファンを熱狂させたわけでもないと謙虚に話し、最後にこう締めくくった。

「今後、偉大なお三方の背中を追いかけ、日本の野球、野球を愛する国民の皆さまの力に少しでもなれるよう努力します」

 松井氏は巨人時代からこどもの日と縁が深い。1992年の入団会見では「子供たちに夢を与え、球場に直接見に来てもらえるような選手になれるよう頑張ります」とコメント。落ち着いて語った姿は、とても18歳の新人とは思えなかった。

 背番号55を背負ったこともあって、毎年球団主催のこどもの日のイベントに積極的に参加。1年目は平成5年5月5日と5並びだったため、背番号5の岡崎とともに、少年野球教室で子供たちを熱心に指導している。

 もっとも、松井は入団当初、星稜時代につけていた5を希望。55は当時の日本記録だった王氏の年間最多本塁打55本を抜くように、という願いを込めて球団が選んだと言われた。が、松井本人は「それは新聞のヤラセです」と否定している。

 岡崎の引退後、97年にFA移籍した清原が5をつけたときは、心底ガッカリしたらしい。松井は評論家となった岡崎氏に向かって「ぼく、ずっと5が欲しかったんですよ。てっきり岡崎さんに譲ってもらえると思ったのに」とグチっている。

 しかし、ヤンキースでも背負った55は、完全に松井の代名詞になった。だからこそ、政府と読売も5月5日に国民栄誉賞の授与式を行ったのだ。

 あれから7年、日本がコロナ禍に覆われているいまこそ、松井氏に力になってほしい、と思うのは私だけだろうか。野球自体ができない以上、力を発揮しようがない、と言われればそれまでだ。が、コロナ後の野球復興に向けて、松井氏が立ち上がってくれれば、日本のファンにとってもこれほど心強いことはない。