【豊田誠佑 おちょうしもん奮闘記(7)】1978年オフにドラフト外で俺は中日ドラゴンズに入団した。憧れだったプロ野球の世界に挑戦できる。俺はうれしくてたまらなかった。
入団が決まると池袋のホテルでお祝いのパーティーを開いてもらった。明治大・島岡監督をはじめ学校関係者や近所の人たちなど100人以上が集まる盛大なものだった。「これはプロで頑張らなきゃいかん。2、3年で帰ってきちゃまずい」。気合が入ったね。
当時の中日の監督は中利夫さん。背番号は「25」番をもらった。ただ自主トレ、キャンプでいきなりプロの壁にぶち当たった。フリー打撃では打球が前に飛ばない。さらに俺は先輩たちのように腹筋や背筋ができなかった。プロでやっていける体になっていなかった。
実は大学時代、ウエートトレーニングというものをほとんどやったことがなかった。島岡監督は「常に実戦」という考え方でシートノック2時間は当たり前。真冬でもボールを使っての練習が中心で地道な筋力トレーニングというものを全く取り入れていなかった。アマチュアならそれでも通用したかもしれないが、プロの選手はスピードとパワーが段違いだ。キャンプから夏場くらいまで俺は二軍で徹底的にウエートトレーニングなどでプロで戦える体づくりを行った。
当時、一軍の守備コーチだった一枝修平さんが中日の寮に住んでいて、時間があるときは室内練習場で新人の俺の練習に付き合ってくれた。昼は二軍で試合に出て、夜は室内練習場で一枝さんとティーバッティング。夏ぐらいになると体もできてきてオールスター明けには二軍戦でガンガン打ちまくった。1年目は一軍での試合出場はなかったが、二軍で3割打ったからプロでやれるという自信みたいなものはついてきたね。
2年目の80年は4月から一軍に上がった。初出場は4月19日の大洋戦(ナゴヤ球場)。5回に代打で登場した。大洋のエース・平松政次さんが一軍初打席の相手だった。結果はライトフライ。一流の投手だけに恐ろしく球持ちがいい。腕を振るギリギリまでボールが出てこなかったことを覚えている。6月19日の広島戦(ナゴヤ球場)ではあの江夏豊さんからプロ入り第1号ホームランを放った。カーブを思いっきり振ったらレフトスタンドへズドン。ダイヤモンドを一周するときにサードベースコーチの一枝さんがすごく喜んでくれたことがうれしかったね。
この年は守備固めを中心に102試合に出場。打率2割5分2厘、3本塁打、18打点の成績を残したが、ドラゴンズは大きな転換点を迎えていた。攻守にわたってチームを支えてきたミスタードラゴンズ・高木守道さんがこの年限りで引退したのだ。守道さんはそのまま一軍作戦守備コーチに就任したが、これが俺の“3年目の飛躍”につながることになった。
☆とよだ・せいすけ 1956年4月23日生まれ。東京都出身。日大三高では右翼手として74年春の選抜大会に出場。明治大学では77年の東京六大学春のリーグ戦で法政のエース・江川から8打数7安打と打ちまくり首位打者を獲得。「江川キラー」と呼ばれるようになる。78年オフにドラフト外で中日ドラゴンズに入団。内外野をこなせるバイプレーヤーとして活躍し82、88年のリーグ優勝に貢献した。88年に現役を引退後はコーチ、スカウト、昇竜館館長を務め2014年に退団。現在、名古屋市内で居酒屋「おちょうしもん」を経営している。












