【長嶋清幸 ゼロの勝負師(15)】1980年代、カープの春季キャンプは地獄だった。守備がヘタだったから週2度の特守をやらされ、マンツーマンで外野ノックを300球捕らなければならなかった。その後でトレーニングコーチの練習をこなし、最後にティー打撃。ナイター照明をつけて、誰もいない中でスタンドティーか、用具メーカーの人に投げてもらったり…。ティー打撃は欠かさなかった。あのころのカープのみんなの体力は尋常じゃない。一方で生身の人間なのでキャンプで故障に泣く選手もいた。

 内野手の高橋慶彦さんだって大下剛史コーチの特守ノックをマンツーマンで300、500と受けていたし、主力だからといって余裕なんかないし、すごかったよ。山本浩二さんだって毎日昼過ぎには帰っていたけど、週1回は100球の特守を泥だらけになりながらやっていたもの。あのクラスはシーズンに向けての調整で、俺らはレギュラー取りの猛特訓。衣笠祥雄さんにしても週1回は体をいじめ抜いていた。

「こら~」「くそ~」と打つほうも捕るほうもガチンコ勝負だった。こんなプロ野球があったんかと思ったよ。あのころを思えば、今は何なんだってなる。外野の寺岡孝コーチも怖かったけど、内野の大下コーチもケンカ腰。たまに「殺したろう」くらいの勢いで外野ノックをやりに来ることもあった。なんとかついていって最後に「お前、大したもんじゃ」と言われた時には「俺も力ついたぞ!」と思ったもの。プロに入る時に57センチだった太ももが数年たって64センチになり、ふくらはぎ、上腕も大きくなって、どんどん体が変わっていった。

 今と違ってオフはダラダラしていて、思いきり遊ぶ時間にしていた。秋季キャンプが終わると、もう当分ボールもバットも持ちたくない。それが年末くらいになると、落ち着かなくなる。あれがまた近づいてくる…。どれだけ厳しいものが待っているか分かっている。だから年が明けたらランニングを始め、あの練習に耐えられるかどうかを想像しながら動き、合同自主トレまでに「これだったら耐えられる」という体をつくっていた。

 座右の銘は「体心技」。普通は「心技体」なんだけど、絶対に順番が違うと思う。体が強くなかったら心は付いてこない。体の部分がなかったら、いくら頑張ろうと思ってもどうにもならん。技術は一番下。自分は「体心技」でしっかり体をつくって体を強くしたから、プロ野球で18年間やってこれた。現役の時に肉離れを起こしたことは一度もないもん。肉離れを初めてやったのはマスターズリーグの時で「これが肉離れか、これはやばい。長期離脱するはずだわ」と思った。

 古葉竹識監督の後任を務めた阿南準郎さんに代わって、1989年には山本浩二さんが監督に就任。慶彦さんがトレードでいなくなり、チームの空気が以前と変わっていった…。

 ☆ながしま・きよゆき 1961年11月12日、静岡県浜岡町(現御前崎市)出身。静岡県自動車工業高から79年ドラフト外で広島入団。83年に背番号0をつけて外野のレギュラーに定着し、ダイヤモンドグラブ賞を受賞。84年9月15、16日の巨人戦では2戦連続のサヨナラ本塁打を放って優勝に貢献し、阪急との日本シリーズでは3本塁打、10打点の活躍でMVPに輝く。91年に中日にトレード移籍。93年にロッテ、94年から阪神でプレーし、97年に引退。その後は阪神、中日、三星(韓国)、ロッテでコーチを続けた。2020年に愛知のカレー店「元祖台湾カレー」のオーナーとなる。