【気になるあの人を追跡調査!野球探偵の備忘録(80)】 昨夏、100回大会の節目を史上初となる2度目の春夏連覇で飾った大阪桐蔭。今や高校野球界の絶対王者に君臨する同校が最初の春夏連覇を成し遂げた7年前、現阪神・藤浪晋太郎、現オリックス・沢田圭佑に続く「幻の3番手投手」がいた。難病から奇跡の復活を遂げた平尾奎太(24)が、過酷な闘病の日々とプロを諦めない理由の一端を明かした。
「もし健康だったら、野球は自分のためだけの野球でした。でも、今は自分が活躍したら、日本中から勇気をもらったと連絡が来る。それを一番発信できるのがプロ野球なんです。今回はかからなかったですけど、プロへ行くチャンスが終わったわけじゃない。何年かかっても、諦めることはありません」
ボーイズ、シニアの盛んな関西に生まれ育った平尾だが、中学までは軟式一本。それでも西谷監督の目に留まり、日本一の名門・大阪桐蔭の門をくぐる。入学から卒業まで、上にも下にも軟式出身者は平尾一人だったという。
「最初は硬球が怖かった。軽いキャッチボールやボール回しでも、投手も野手も見たことのないような球を投げてくる。みんなボーイズやシニアの出身で、その中でもトップレベルの選手たち。焦りましたね」
ライバルを上回る練習量が実を結び、2年秋、レギュラー入りをつかみ取る。例年5人の投手枠を、西谷監督をして「今年は3人でいい」と言わしめたうちの一角。あとの2人を藤浪、沢田が担った。迎えた新チーム最初の公式戦では先発を任されたが、その初戦が雨天順延となった直後、悲劇が平尾を襲う。
「校内放送で監督に呼び出されたと思ったら、そのまま緊急入院で『野球はもう諦めてください』と。納得なんかできるわけない。医者の言うことに、『分かりました』とは一度も言えなかった」
病名はigA腎症。自覚症状がなく原因も判明していない、国が定める難病だった。入退院を繰り返しながら、それでも医師の反対を押し切って徐々に練習を再開。春夏連覇を成し遂げたセンバツ、選手権では登板はなかったものの、府大会では完封勝利も収めた。
「けがなら自業自得。痛みで投げられなければまだ諦めもつくけど、自覚症状もない病気なので、投げることはできるんです。それだけに、なんで自分は病室にいるのか、なんで野球ができないのかと考えてしまって。大丈夫と言われるまでセカンドオピニオンを回って、最後は病院の先生が折れてくれた」
控え投手として歓喜の輪に加わった後は、本格的に治療を再開。大学進学後はほとんどグラウンドに行くこともなく、日に10錠以上の投薬や点滴、背筋を貫通するはりでの検査など、苦しい闘病生活を続けた。そのかいあって、3年春のリーグ戦からは全快。昨秋ドラフトでは指名漏れの悔しさも味わったが、今も社会人野球を代表する左腕として強豪・ホンダ鈴鹿でプレーを続ける。
心の支えとなったのは大阪桐蔭の先輩で、同じく大病を患いながらもプレーを続ける阪神・岩田稔の言葉だ。
「入院してすぐ、西谷さんの計らいでお見舞いに来てくれたんです。阪神戦を見ながら1時間くらい話をした。『神様は乗り越えられる人にしか試練を与えない。君は病気を乗り越えられると神様に認められたんだ』と言ってもらって。ちょうど2日後が先発の日。『抑えるから。見ててよ』って、それで1安打完封。岩田さんのように、苦しんでる誰かに勇気を与えられる存在になりたい」
病を患ったことで分かった、野球を続けるもうひとつの理由。あの日以降、平尾のグラブには「野球を出来ることに感謝」の文字が刻まれている。
ひらお・けいた 1994年6月21日生まれ、大阪府泉佐野市出身。泉佐野第一小2年のとき、軟式野球チーム泉佐野レッドスターズで野球を始める。佐野中では軟式野球部に所属。大阪桐蔭入学後、2年春からベンチ入り。3年時にチームは春夏連覇。同志社大進学後は3年春に初登板、リーグ通算8勝を挙げ、4年秋にベストナイン。卒業後は社会人野球のホンダ鈴鹿でプレーを続ける。188センチ、90キロ。左投げ左打ち。












