【越智正典 ネット裏】先日、総務省が手紙やはがきの郵便物の土曜日の配達をやめて平日だけにする検討に入ったという記事を読んだとき、1958年に宮城県気仙沼高から大洋ホエールズに入団した島田源太郎を思い出した。
彼が入団した年の大洋のキャンプの宿は鹿児島鴨池球場の左翼うしろの老舗旅館。二軍はすぐそばのちいさな旅館。ゲンちゃんは練習から帰ってくると、物干し台でハーモニカを吹いていた。淋しかったのだろう。
休日の朝、階段から降りて来た。帳場に「家に手紙を出すのですが切手をわけて下さい。いくらですか」。当時、選手たちは休日の前の晩に手紙を書いていた。ケータイはまだない。
そこへ一軍投手松井武雄(若狭高)がひょいと顔を出した。のちに球団代表を務める(97年3月28日~2003年12月31日)湊谷武雄である。松井が「ここは九州だろ。九州へ出すなら10円、大阪なら20円、東京だと30円。ゲンの家は遠いだろ。だから50円かかるんだ」。島田はドングリ目を大きくして、なるほどと肯いて帳場に「50円切手を一枚おねがいします」。
ゲンちゃん入団3年目の60年、大洋の監督に智将三原脩が就任。機略縦横、前年の最下位から一気に優勝した。秋山登21勝10敗、島田源太郎19勝10敗、左腕権藤正利12勝5敗。日本選手権では左腕鈴木隆が、大毎の田宮謙次郎、榎本喜八…左打者を抑える。大洋は1対0、3対2、6対5、1対0のストレートで“ミサイル打線”の大毎を破った。この年、三原はまさに「球界を席捲」(報知新聞田中茂光記者)、「菊池寛賞」が贈られた。
10月11日、優勝パレード。大洋漁業本社がある丸ビル街の窓々から紙吹雪。が、ときに栄光は一瞬である。島田はこのあと肩を痛めた。実は「ネット裏」で彼の再起を話したかった。練習で低く低く投げていた。68年、14勝6敗。カムバックした。
巨人の森祇晶は公式戦、日本選手権、特に外国人選手にはこのリードを貫いた。V9殊勲捕手である。監督川上哲治の命令で再起投手を預かったときは、ブルペンでミットを外角に低く出して構え「ゆるくてもいいんだよ、はずれてもいいんだよ」。低い球が来ると「ナイスボール! また勝てるよ」と励まし続けた。彼の勝負の考えがよくあらわれている。
85年秋、西武球団が広岡達朗を解任。慌ただしく後任に。監督室の机上には国語辞典。他球団との投打のビデオを見事に整備。巨人スコアラー、小松敏宏が分析を教わりにくるとご苦労さん、とみやげにウイスキーを。情もある。勝つわけだ。
在任9年、リーグ優勝8回、日本選手権6回。凄い。Bクラスは一度もない。87年、日本選手権で上着のボタンをはずして投げ、ファンの非難に悩んだ工藤公康が監督室にくると「ボタンをはずして勝つなら全部はずせ」。凄い。=敬称略=(スポーツジャーナリスト)












