【藤田太陽「ライジング・サン」(31)】西武に移籍してようやく野球選手になれました。チームの戦力として戦う充実感。阪神時代の自分には感じることのできなかった経験をさせていただきました。

 移籍した1年目の2009年には、僕が入団時にドラフト1位で阪神に獲ってくださった野村克也監督が、楽天の指揮を執られていました。仙台での楽天―西武戦の試合前でした。相手球団の担当記者の方に呼ばれて、楽天側のベンチへあいさつに伺いました。

 阪神時代とは打って変わって、西武ではバンバン腕を振って活躍できている。髪の毛も金髪にして自分を変えようとしていた時期です。

 いつものように担当記者の方々にグルリと囲まれている野村監督はまず「髪の毛切ってこい」とおっしゃいました。周囲の皆さんもウケて笑ってました。

 でも、その続きがあります。野村監督と2人の状態でお話しさせていただきました。
「活躍しとるやないか」と言われたので「いえ、まだまだです」と返すと思わぬ言葉をいただきました。

「あのころは悪かったなあ。1年目に入ってすぐ、キャンプ初日に投球モーションをいじってしまってな。ヒジも痛かったんやろ。なんで言わんかったんや」

「言えなかったんです。それでも自分としては何とかしたかったんです」と返答しました。

 すると続けて「まあ、そやなあ…。お前のヒジを壊したのは俺にも責任があるからなあ。今こうやって西武でセットアッパーとして野球をやれていることに、全力で頑張ってくれよ。応援してるからな。でも、楽天戦では打たれるんだぞ」と、ユーモア交じりに僕のような若輩に謝罪の言葉を残してくださいました。

 もちろん、野球界のレジェンドですので敬意を持って接していました。結果が残らなかったことは自分の責任です。でも、心の中ではそれまで「クッソー」と思っている自分もいました。

 なんで、あのとき僕には直接言わないで、八木沢投手コーチに言わせてフォームをいじったんだよ。そういう感情を持っていました。でも、そういう気持ちが一瞬で解けていきました。

 野村さんには阪神時代、いつも言われていたことがあります。「弱者を強者にした時点で試合に負ける」という言葉です。

 1点もやれない9回無死満塁の場面では、普段二死無走者では警戒する必要のない8番、9番の打者でも強打者になってしまうという意味です。

 無警戒でいいはずの弱者を相手に大きな重圧を感じた時点で、強者を相手にするようなものということです。

 そして、そういった状況をつくってしまうのが無駄な四球や軽率なエラー、不用意な球を投げて連打を許してしまうことです。特に不必要な四死球は論外。負けるべくして負ける。偶然はない。そう言われ続けていました。

 僕はそれを身をもって感じていたタイプの投手です。野村さんが楽天で監督をされていた最終年が09年。僕がそのシーズン途中に西武に移籍してなければ、そういう会話もできなかったかもしれません。

 野村さんは昨年2月に他界され、今となってはお話ができなくなってしまいました。本当は阪神の監督在任中に恩返しできればよかったのですが、遅れてでも西武で活躍できた姿を見せられてよかったと思います。

 ☆ふじた・たいよう 1979年11月1日、秋田県秋田市出身。秋田県立新屋高から川崎製鉄千葉を経て2000年ドラフト1位(逆指名)で阪神に入団。即戦力として期待を集めたが、右ヒジの故障に悩むなど在籍8年間で5勝。09年途中に西武にトレード移籍。10年には48試合で6勝3敗19ホールドと開花した。13年にヤクルトに移籍し同年限りで現役引退。20年12月8日付で社会人・ロキテクノ富山の監督に就任した。通算156試合、13勝14敗4セーブ、防御率4.07。