【天龍源一郎vsレジェンド対談「龍魂激論」(5=前編)】「最強」と呼ばれた元全日本プロレスの3冠ヘビー級王者・ジャンボ鶴田さんが2000年5月に死去してから、今年で20年がたつ。ミスタープロレス・天龍源一郎(70)がホスト役を務める「龍魂激論」、今回は和田京平名誉レフェリー(65)と秋山準(50)が登場。最大のライバルだった天龍、若手時代から知る和田氏、直接指導を受けた秋山が「鶴田最強説」を語り合った。前中後編の3回にわたってお届けする前編では闇に葬られた「幻の鶴田クーデター事件」の真相が明かされた。

 ――5月13日の命日で、鶴田さんが亡くなって20年(享年49)。天龍さんとの最後の3冠戦(1990年4月19日、横浜)から30年という節目の年です

 天龍:もうそんなになるのか。感慨深いね。 

 和田レフェリー(以下和田):ああ、そう。30年前って横浜? 懐かしいねえ。

 ――改めて鶴田さんとは

 天龍:身近にいて「こうなりたいな」と思える存在だった。馬場さんに対する忠誠心が俺なんかとは全然違った。「全日本プロレスに就職します」っていう言葉は有名だけど、本当にそう思っていたからね。

 和田:そうそう。サラリーマン感覚なんですよね。

 天龍:だから俺なんかが「ジャンボ、馬場さんにちょっと言ってくれよ」と不満を告げると「源ちゃん、まあそう言わないでよ」と逆になだめられた。馬場さんに就職させてもらったという恩義を忘れないんだよ。あの体格と才能だから普通なら、「全日本に入ってやった」という意識を持つと思うんだけど、一切なかったね。

 ――格が違ったと

 天龍:(72年ミュンヘン)五輪に(レスリングで)出た金看板は持ってるし、身体能力、力量は抜群だった。相撲で言えば横綱に推挙されてもおかしくない品格…あっ、品はなかったな。

 和田:(爆笑)。

 天龍:まあ大学でレスリングやって、プロレスに入ったら「ワーッ」と一気に注目を集めたんで少し浮かれてたのかな。ジャンボは中学時代の夏休みに朝日山部屋に入門して新弟子検査に合格してるんだ。叔父さんが力士だったんだよね。だから親近感を持っていた。

 和田:俺はあんまり若い時期のインパクトがないんだよね。ジャンボは最初からトップだったから。馬場さんからすれば、何でも「ジャンボ、ジャンボ」でしたからね。

 天龍:いや、馬場さんが認める人間はもう一人いたんだよ。サムソン・クツワダ(故人)って男が。朝日山部屋出身(元幕下)だったからジャンボと仲が良かった。体格もあったしね(190センチ、120キロ)。それでクーデターの一件につながるわけだ。

 ――77年末にクツワダさんが、鶴田さんをエースに新団体旗揚げを画策した一件ですね。複数の当事者から同時に話をお聞きするのは初です

 和田:ジャンボとクツワダさんは仲が良かったからね。

 秋山:えっ、そんな大事件があったんですか?

 和田:意外にファンの人も知らないんだよ。

 天龍:サムソンがテレビ局と大物スポンサーを「ジャンボが来るから」って口説いたんだよ。結局、事前にバレてサムソンは即刻クビになったんだ。まあ、ジャンボは相づちを打った程度だったらしいけど。誰かが密告したんだろう。

 和田:誰でしょう。

 天龍:犯人はグレート小鹿(現大日本プロレス会長)しかいないな…。

 和田:間違いなく小鹿さんでしょうね。

 ――秋山選手も犯人は小鹿さんだと

 秋山:いやいや勘弁してくださいよ。僕、まだ子供でしたよ。

 天龍:「犯人」は言い過ぎたな…。小鹿さんこそ全日本プロレスのお家騒動を収めてくれた陰の大功労者ですよ。

 和田:馬場さんのそばにいて、あれこれ話ができたのは小鹿さんが一番でしたからね。

 天龍:渕(正信)なんか、そばにいても足の爪すら切らせてもらえなかったからな。

 ――しかしあの鶴田さんが一度でも馬場さんを裏切ろうとしたとは…

 天龍:人気はあったから、誰かがいいことを耳元でささやけば、その気になっちゃうよ。サムソンは口がうまかったから。馬場さんに対する初の自己主張だった。馬場さんが少し下り坂になって、ジャンボは一本立ちできてたしね。でも馬場さんはこの件を機にがっちり囲んで他人の声を入れないようになった。

 和田:ですね。クツワダさんをばっさり切った後は一切、馬場さんもクーデターについて語ることはなかった。ただ、2人の信頼関係にヒビが入ったのは間違いない。俺もトークショーで1回、話したことがあるくらいで、ファンの人たちも「えー?」って驚いてました。

 天龍:闇に葬られた全日本プロレスの暗黒史ですよ。

 ――そろそろ「鶴田最強説」に入りたいのですが、何であんなに強かったんですかね

 天龍:分かりきったこと聞くなよ。一生懸命やらなかったからに決まってんだろう。

(中編に続く)

☆あきやま・じゅん=1969年10月9日生まれ。大阪・和泉市出身。専大卒業後にジャイアント馬場のスカウトで全日本プロレスに入門し、92年9月17日の後楽園大会で小橋健太(現建太)を相手にデビュー。2000年7月にノアに移籍するが、13年7月に全日本に再入団し社長も務めた。188センチ、110キロ。

☆わだ・きょうへい=1954年11月20日生まれ。東京・足立区出身。74年の全日本プロレス「NWAチャンピオンシリーズ」でデビューし、軽快なフットワークと大きなアクションの「魅せるレフェリング」が身上の名レフェリー。プロレス大賞で表彰されたこともある。現在は全日本の名誉レフェリーとして活躍。