安藤&ジェフのアテネ五輪離脱で編み出した「新勝利の方程式」

2020年06月04日 11時00分

03年の優勝旅行で花束を受け取る岡田新監督(右)と星野前監督

【球界平成裏面史(40) 岡田阪神の巻(1)】平成17年(2005年)、就任2年目でリーグ制覇を成し遂げた阪神・岡田彰布監督は、オフに入ってしみじみとこう漏らしたことがあった。

「そらなあ、優勝しているチームをいきなりいじられへんわなあ。もともと、ええ結果が出とったわけやから、わざわざ崩すいうのは勇気いるわなあ」

 03年、前年に優勝した巨人から19ゲーム差の4位に沈んだ星野仙一監督はチーム強化のため徹底的な血の入れ替えを断行した。その数はチーム全体の3分の1以上にあたる26人。FAやトレードにも積極的に動き、広島からFA加入した金本知憲をはじめ、日本ハムからは複数トレードで下柳剛、米球界にいた伊良部秀輝も獲得した。その結果、戦力面だけでなく、選手個々の意識も大きく変わり、阪神は18年ぶりにリーグ優勝。全国の虎党が沸いた。

 ところが、同年オフに星野監督は体調不良を理由に勇退。後を受ける形となった岡田監督としては、一気にチームを「岡田色」に塗り替えるのは困難な状況でもあった。

 岡田タイガース元年の04年は、攻撃面では前年の首位打者・今岡誠(現真訪)を1番に据え、2番には快足の赤星憲広、3番につなぎの打撃もできる金本知憲という形をそのまま踏襲。投手陣に関しても安藤優也、ジェフ・ウィリアムスを擁する鉄壁のリリーフ陣にメスを入れることはなかった。

 前年に圧倒的な勢いを誇ったチームを解体する勇気。その必要性すら、誰も感じてはいなかっただろう。だが、強かったはずのチームはフタを開ければ前年とは違った。夏場まで5割ラインを行き来しながら踏みとどまっていたが、勝負どころの9月に6勝11敗と急失速した。

 ナゴヤドームでの中日戦では4月22日に勝利したのを最後に11連敗するなど、V逸にはいくつかの要因があった。その中で、ことさら岡田監督が「あれはしんどかった」と振り返ったのは8月中旬から下旬に至るアテネ五輪だった。阪神からはセットアッパーの安藤優也、内野の藤本敦士に加え、オーストラリア代表として守護神ウィリアムスが抜けた。勝ちパターンの鉄板2枚を奪われたダメージは大きかった。

 ライバル球団も巨人は上原浩治、高橋由伸、中日は岩瀬仁紀、福留孝介と投打の主軸を代表に派遣しており、その点で不公平だったわけではないが、指揮官は「勝ちパターンの投手が2枚抜けるのは訳が違う」と当時の失速を思い出すように表情をゆがめた。

 しかし、岡田監督は転んでもただでは起き上がらない。「あの時にいろいろ考えたのが次の年に生きたんよ」とも話していたように、就任1年目を借金4の4位で終えた指揮官は勇気をもって動いた。首脳陣には同年の球界再編で球団が消滅した近鉄から久保康生投手コーチと正田耕三打撃コーチを招聘。虎の代名詞となる「JFK」、ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之の3投手に終盤3イニングを託す新たな勝ちパターンも編み出した。

 星野イズムから岡田イズムへ――。栄光と屈辱を味わった阪神は「岡田の虎」へと生まれ変わっていった。

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