清原との泥仕合に終始した「短命」巨人・堀内監督政権

2020年04月09日 11時00分

常に険悪ムードだった清原(左)と堀内監督(右)

【球界平成裏面史 清原VS堀内監督の巻】堀内監督時代、巨人は平成16年(2004年)が3位、翌17年が5位。かつて背番号18を背負った元エースは、史上初の優勝経験ゼロ監督となり、わずか2年間の短命政権に終わった。その2年間、堀内監督と泥仕合を繰り広げたのが清原である。両者は長嶋監督時代から大変折り合いが悪く、平成16年は堀内監督が清原をキャンプから二軍降格。一軍が暖かいグアムにいた2月前半、清原は二軍とともに寒風吹きすさぶ宮崎へ追いやられた。

 宿舎は当然二軍選手と一緒、朝6時半からの散歩も義務。初日に清原がホテルから出てくると、約50人の報道陣が一斉に群がって大声が飛び交ったり、近隣の畑や灌木が踏み荒らされたり。地元住民から苦情を受けた香坂広報担当は、2日目から散歩取材を禁止してしまった。

 練習する球場は現在オリックスがキャンプに使っている清武だが、当時はまだ球場もブルペンも建設途中でろくに設備が整っていない。あまりにみじめな扱いがよほど腹に据えかねたか、清原は「二軍は監獄に入れられてるみたいやった!」とチーム内で不満をぶちまけている。

 このときの二軍には、“清原派”と見られていたベテラン元木、後藤らもいた。彼らが現在のように一軍のコーチとして優勝に貢献するとは、当時は誰も想像できなかった。阪神から移籍した野村克則も黙々と練習していたものだ。

 こうしてシーズンが始まると、清原は本塁打を打っても堀内監督とのハイタッチを拒否。本拠地最終戦では試合後のセレモニーにひとりだけ大幅に遅れて現れ、ファンを大騒ぎさせて堀内監督のあいさつが聞こえなくなるというトラブルも起こしている。

 激怒した堀内監督が清原を翌年の構想から外したのも当然だろう。当時、清原に対して戦力外を通告したのは、球団代表特別補佐という肩書でフロントにいた長嶋一茂だったと、のちに清原が明かしている。

 だが、平成14年からの4年契約を1年残していた清原は、延命を懸けて清武球団代表との会談を要望。「ボクは戦力外と言われてますが、編成は監督主導でやってるんですか、フロントなんですか!」と詰め寄った。

 それも、水面下でこっそりとではなく、神田のビルにあった球団事務所で堂々と直談判に及んだのだ。おかげでマスコミに騒がれた巨人側は、清原に対して「来年も戦力と考えている」と言わざるを得なかった。

 こんな清原に巨人が手を焼いていたころ、次期監督候補に浮上したのが星野仙一である。

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