【気になるあの人を追跡調査!野球探偵の備忘録(13)】今年もセンバツ高校野球で球児たちの熱戦が繰り広げられているが、2001年のセンバツで大旋風を巻き起こしたのが、21世紀枠で出場し、初出場ながらベスト4入りした沖縄・宜野座高校だ。エース・比嘉裕のタテに鋭く落ちるカーブは、代々宜野座の投手陣に受け継がれ、魔球「宜野座カーブ」として広く世間を沸かせた。新変化球ともいわれた宜野座カーブの生みの親、元宜野座高校監督・奥浜正(55)を訪ね、魔球誕生の秘密に迫った。

「宜野座カーブ」。その投げ方は、通常のカーブとはボールをリリースする際の手の甲が正反対を向く。リリース時の手の甲の向きが同じ「シュート」は最後、中指と薬指の間からボールを抜くように投げるが、宜野座カーブは縫い目にかけた人さし指で下方向へ強く引っかくようにトップスピンをかける。リリース時、人さし指で強く切るというのは、横から投げる陸上の「円盤投げ」とまるで同じ。スポーツ界では既存の投法も、野球界では見向きもされなかったところに、奥浜は着眼した。

 きっかけは奥浜の高校時代にまでさかのぼる。「授業で円盤投げをやったとき、それまでは4本の指と指の腹でつかむもんだとばかり思っていたのが、抜かずに力で切るのだと教わった。その記憶が残っていました」。その後、教職の傍ら参加した職域野球で投手を任され、思うままにのちの“宜野座カーブ”を操った。「まったく偶然の産物です。周囲からは『カーブはそうじゃない、こうだ』と散々バカにされましたが、遊びで投げてるなかで確信した。『カーブも指で切るんだ』と」。こうして宜野座カーブが誕生した。

 だが、甲子園で勝ち進むにつれ、奥浜は思ってもみない批判にさらされることになる。

「私はもともと外野手出身。まったく信用されずに記者の方にもずいぶんひどいことを言われました。投げ方を聞かれたので教えたら、『そんなはずはない。なんでうそをつくんだ』とか、『あんたが言うように投げたら、見てください。ケガしましたよ』とか(笑い)」

 それまでのカーブの常識を覆す腕の振り方から、故障のリスクが盛んに取りざたされたのだ。

「確かに最初(教えたて)のころはまねしてケガをする子が多かった。でもそれは頭がこれまでのカーブと同じ意識で投げているから。普段使わない筋肉を使うということもあったかもしれないが、ボクシングのストレートやバドミントンのスマッシュ、バレーボールのスパイクと同じ(腕を内側にひねる)動きなので、きちんと理論に基づけばケガはしない。現に私の教え子で致命的な故障を負った投手は一人もいません」

 不本意な理由から物議を醸した宜野座カーブだが、取り上げられることに一切の出し惜しみをするつもりはないという。

「説明してもわからないでしょうから、実際に見に来てください。隠すものではないし、普及したほうが野球界全体の底上げにもつながる。野球では真面目な子ほどヒジを壊す。宜野座カーブは野球ヒジの予防にも役立つと思うんです」

 そんな奥浜は現在、沖縄・北部農林高校でわずか11人の部員を相手に指導にあたる。公立校では当たり前の転勤といえ、最初は指導方法の違いに戸惑いを隠せなかった。

「彼らの多くは小中学校とレギュラーになれなかった子たち。厳しい規律や、専門的なことを教えても離れていってしまう。ひどいときは部員7人、そのうち5人が幽霊部員でした。今までの実績で強制的に指導しても、それは彼らの可能性を殺すことになってしまうんじゃないか」

 最初はグラウンドの草むしりから始め、前任地の名護高校に頼み込み、ボールなどの備品を譲り受けた。ネットや練習用具はすべて奥浜の手作り、筋力を鍛える鉄製のバットも自ら鉄を溶かして自作した。それでも幾度となく訪れた廃部の危機に、宜野座では気づかなかった多くのことを学んだという。「僕が来て強くなるね、とも言われたけど、現状を見て何が必要か考えることも大切。技術よりも大切なことがある。あそこ(宜野座)も高校野球、でもここも高校野球なんですよ」

 宜野座高校から監督復帰の要請はあるものの、そのつもりはないという。「あそこでの私の役目はもう終わっています。退職まであと5年。野球を通じて、考えることの大切さを彼らが自分のものにしてくれれば」。海沿いの小さなグラウンドに、今日も奥浜の声が響く――。

 ☆おくはま・ただし 1960年、10月9日生まれ。沖縄県名護市出身、小学校5年生のとき大宮エースで野球を始める。名護中では県大会ベスト4。名護高では1年秋からレギュラー、県大会ベスト4。沖縄国際大では野球を離れ、経済学を学ぶ。28歳のとき東江(あがりえ)中に赴任、野球部顧問として5年間で県大会優勝3回、全国大会準優勝1回。96年宜野座高校に赴任。2001年春に21世紀枠で選抜に出場しベスト4。01年夏、03年春と3度の甲子園出場を果たす。06年、母校名護高校監督に就任。12年から北部農林高校監督。現役時代は外野手。163センチ、75キロ。右投げ右打ち。