今から39年前の1984年(昭和59年)11月13日、新日本プロレスの「MS・Gタッグリーグ戦」(16日開幕)へ参加が決まっていた〝爆弾コンビ〟ダイナマイト・キッドとデイビーボーイ・スミスがカナダ太平洋航空401便で来日した。

 2人が到着する前、「私は知人を迎えにきたのですが、だれか見えるのですか?」。そう我々に訊ねて、おとぼけを決め込んでいた全日本プロレスの米沢良蔵渉外部長がキッド、スミスに近寄ると、ガッチリと握手をかわした。

 キッドは「オレたちはニュージャパン(新日本)ではない。オールジャパン(全日本)へ来た」と、なんと全日プロの「世界最強タッグ決定リーグ戦」(22日開幕)への参加を表明するという前代未聞のハプニングが勃発した。81年のハンセンの移籍騒動に匹敵する衝撃的な出来事だった。

 全日プロは9月に御大・ジャイアント馬場会長が出席し、リーグ戦の組み合わせを発表した際、「もうひとつ8番目のチームの参加を予定しています。近日中に記者発表できると思うが、NWA系のかなりの大物チーム」と語っていた。その8番目のチームがキッド、スミスだったのだ。

 翌14日、キッドとスミスはキャピトル東急ホテル(現ザ・キャピトルホテル東急)で移籍の事情を説明して、心境を語った。

 キッド、スミスの主戦場だったカナダ・カルガリーのプロモーター、スチュ・ハートが興行権をWWF(現WWE)に売却。キッド、スミスら数人を除いて、20人近くいたレスラーはお払い箱となっていた。2人はWWFのカナダ周辺のサーキットをこなしたが、すぐ反旗を翻し、「WWFと太いパイプでつながっている新日本に出場するわけにはいかない」と語った。

 馬場も「同時期に新日本が呼んでいた選手だけに使いたくはなかった。しかし、NWA側の意向とキッド、スミスの強い要望があったので、登場させることにした。米国レスリングウォーの副産物。(オレは)NWA副会長の立場としてキッド、スミスを使うんだ」と釈明した。

ヒト(右)は新日プロへの不満を爆発させた(1984年11月、キャピトル東急ホテル)
ヒト(右)は新日プロへの不満を爆発させた(1984年11月、キャピトル東急ホテル)

 会見の席では、仕掛け人といわれたミスター・ヒト(安達勝治)が過激発言。

「2人から全日本に行きたいと相談されたんで、2週間前に馬場さんに話した。新日本の若手を一人前にしてやったのに、オレへの報酬は5千ドル(約125万円=当時)だけだ。2年も3年もかかった。オレは売り出すアイデアを考え、7人乗りのマイクロバスを買い、選手を会場に送り迎えしてやった」。そう一気にまくしたて、アントニオ猪木や坂口征二にも「あの人たちはオレの顔をまともに見れないはずだ」と鋭い言葉を投げかけた。新日本への〝憎悪〟がうかがえた。

 ホテルには新日プロの坂口副社長が姿を見せ、馬場会長に契約書のコピーを手渡して1時間16分に及ぶ〝トップ会談〟を行うというハプニングもあった。

 16日には、新日プロのシリーズに招かれていたWWFの代表ビンス・マクマホンJrと坂口が車に同乗し、キャピトルの馬場を訪問。坂口は両者の会議途中で引き揚げた。

 さて、移籍するという情報をつかんでいた東スポの全日プロ担当、川野辺修記者が当時を振り返る。

「移籍した年の夏、恵那さん(ロサンゼルスで全日プロのチケットの手配をしていたエージェント「ニュージャパン・トラベルセンター」社長)が来日したので銀座の焼き鳥屋で会食した。恵那さんが『面白いことが起きますよ』というので根掘り葉掘り探りを入れた結果、判明した」と回想する。
 
「10月にはキッド、スミスのビザが下りて、恵那さんに2人を飛行機に乗せたという確認を取って1面用に「キッド移籍」原稿を書いた。ところが、〝東スポ内新日〟の桜井(康雄編集局長)さんと永島(勝司)さんが(鯨岡)チカさん(新日プロのエージェント)に連絡を取って『そんなことは絶対ない』と言われ、原稿をボツにした。裏を取って書いたのに…あれには腹が立ったね」と憤る。

 そして「安達は単なるメッセンジャー。声をかけたのはドリー(・ファンク・ジュニア)だよ」と断言。

「81年に新日本が(アブドーラ・ザ・)ブッチャーを引き抜いたでしょ。あれで馬場さんが怒ったよね。その年の5月くらいだったか、馬場さんに『(タイガー・ジェット・)シンも(スタン・)ハンセンもウチへくる。キッドも。まだ書くなよ。書いたら絶縁だ』そう言われた。上田(馬之助)とスミスは付録でしょ」と明かす。

 ハンセンに声をかけたのはテリー(・ファンク)。ハルク・ホーガンには両てんびんかけられ、移籍をドタキャンされ怒ったテリーは弟分のディック・スレーターを連れ、ホーガンのホテルへ殴り込みをかけた(ホーガンは不在)話は、後にテリー本人が明かしている。ファンクスが馬場の命を受けて動いていた。
 
 ところで、翌85年からキッド、スミスはWWFに本格参戦する。ブルドッグを引き連れ「ブリティッシュ・ブルドッグス」としてWWF世界タッグ王座も奪取。移籍理由に挙げていたWWF云々は、表向きの理由だったようだ。

 いずれにせよ、84年の新日プロは、長州力ら維新軍団13人を新日本プロレス興行の大塚直樹社長に引き抜かれ、選手が大量離脱して青息吐息。さらなるダメージを負うこととなった。

 さて、今年の「世界最強タッグ――」は11月12日、後楽園ホールで開幕した。前身となる77年(昭和52年)の「世界オープンタッグ選手権」の翌年から名称を変更し、毎年開催される歴史あるシリーズ。過去にはいまだに語り草となる騒動、事件があった(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る