【プロレス蔵出し写真館】今から39年前の1984年(昭和59年)10月22日、天龍源一郎のUNヘビー級王座と阿修羅原&石川隆士(後の敬士)のアジアタッグ王座防衛戦が予定されていた全日本プロレス、長崎国際体育館で前代未聞のアクシデントが勃発した。

プロモーターが謎の蒸発事件を起こし館内はガラガラ(1984年10月、長崎国際体育館)
プロモーターが謎の蒸発事件を起こし館内はガラガラ(1984年10月、長崎国際体育館)

 この日の興行を請け負った長崎のプロモーターA氏が突然謎の蒸発。市内にはポスターが1枚も張られておらず警察、消防署への興行許可申請も出されていなかった。当然、切符は1枚も売れていなかった。

 試合当日、長崎入りしてジャイアント馬場は、このとんでもない事実を知らされた。

 大会中止も検討されたが、日本テレビ「全日本プロレス中継」の収録日でもあった。「マスコミなどで、この日の試合を知って会場に来てくれたお客さんもいた。全日プロの姿勢として、一人でもお客さんが会場に来てくれるなら試合をやります」と馬場会長は陣頭指揮に立ち、興行を決行した。

 観客数1800人と発表されたが、実数は招待客を入れて3ケタがいいところ。A氏は知人だったという長崎出身の原は、後に「オレに相談してくれていれば…」と嘆いていた。 

 ところで、アジアタッグは原の右ヒジ負傷のため中止が決まった。そう発表されたが、実は原は20日の下関大会から「精神的スランプ」を理由に無断欠場して行方をくらませていたのだ。

 翌85年のある日、永田町のキャピトル東急ホテル(現ザ・キャピトルホテル東急)の「ORIGAMI」でいつものように馬場と同席していた東スポの全日プロ担当記者は、不意に馬場にこう問われた。

「川野辺(修)ちゃんは阿修羅とは連絡取れるの?」

 電話で話していると明かすと、「今度会わせてくれ」。馬場はそうリクエストした。

 日を改め、川野辺は原と待ち合わせキャピトルで馬場と会ったという。

「カムバックする気はあるのか?」。馬場は原に確認。

「はい、あります」。原は即答した。

 失踪から約5か月後の85年4月3日、原は突如、山形県立体育館に姿を現した。私服で長州力VS石川戦に乱入し、長州を履いていたウエスタンブーツで殴打し、大流血に追い込んだ。

 原は〝ヒットマン〟として復活した。

 2週間後、長崎の稲佐山で東スポの単独取材に応じた原は「レスリングをやる気力がなくなっていた。長州たちが全日マットで暴れているのをテレビ、新聞で見て、体中の血が頭にのぼった。今は一日でも早くリングに上がりたい」とコメントした。

 原は19日にも長州を襲撃。24日の横浜大会で約半年ぶりに全日プロ復帰を果たした。天龍とタッグを組み、長州&アニマル浜口組と対戦したが、試合途中、パートナー天龍の頭にイスを振り下ろし「俺は1人でやってやる!」と宣戦布告して、試合を放棄した。

 本格参戦を果たすと全日プロ本隊、外国人バスには乗らず、1人電車移動して巡業に同行していたのを覚えている。

天龍と原は深い絆で結ばれていた(1987年8月、岩手・宮古市内)
天龍と原は深い絆で結ばれていた(1987年8月、岩手・宮古市内)

 さて、その後の原は、天龍と「龍原砲」として全日マットを活性化した。しかし、88年(昭和63年)11月19日、「世界最強タッグ決定リーグ戦」の開幕戦が行われる栃木・足利市民体育館の試合前、馬場の口から衝撃的な「原の解雇」が発表された。

 理由は「金銭面でのルーズさ」。原は多額の借金を抱え、金融業者に追われていた。温厚な人柄で、気っ風がよくて気前もいい。それが災いしたともいえる。

 天龍や様ざまな関係者の尽力で91年(平成3年)SWSで復活を果たし、完全燃焼して引退した。

 阿修羅原は〝昭和のレスラー〟然とした、記憶に残るプロレスラーだった(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る