【石井和義の光と影♯6】1980年、15歳から師事した“ケンカ十段”芦原英幸先生とたもとを分かち、新たに自分の道場を立ち上げることに決めました。最後に先生と「中山猛夫だけは引き継ぎ期間の1年が終わったら僕の方に来る」という約束をしました。ところが中山は他の後輩も連れてきたんです。「先生と話はつけたの?」って聞きましたよ。でも「大丈夫です」というから受け入れたけど。案の定、芦原先生は僕が、引き抜いたと思ったわけです。
でも、先生には思うところがあったんじゃないかな。僕は芦原道場を辞めた直後に道場をつくってチマチマやっていくつもりでした。でもそこは“石井和義”だから。正道会館もバーッと支部が広がって各大学に同好会もでき、82年に「第1回ノックダウンオープントーナメント全日本空手道選手権大会」を開催して大阪府立体育館第1競技場は満員。「逃がした魚は大きい」じゃないけど、次第に芦原先生は僕のことをボロクソに言い出したそうですよ。
95年4月、先生が亡くなって線香をあげに行ったけど、門前で止められました。「故人の遺言で『石井だけは、くぐらせちゃいけない』と言われている」と。そこまで行けば勲章ですよ。自分のやったことを正当化するには誰かを悪者にするしかない。それでやり玉になったけど「今はそれでいいな」と思っているんです。だって、男は買った恨みで大きくなるから。師匠の“ケンカ十段”芦原英幸に恨まれるってなかなかでしょ?
僕が芦原道場を辞めた後の80年9月、芦原先生は極真会館を退会し「新国際空手道連盟 芦原会館」を立ち上げます。理由? 推測だけど先生の思惑と支部長のジェラシー、大山倍達先生の考えとがいろいろ重なったんじゃないかな。漫画「空手バカ一代」で人気が出て大山先生と芦原先生の関係が悪くなったという見方もあるけど、それだけではないでしょう。
芦原先生はもともと独立したかったんです。僕も「辞めた後どうしよう」って相談はよくされていました。ただ、裏切り者に思われるのが嫌な様子でした。当時、中村忠さんとかいろんな人たちが辞めていて、タイミングが見つからずに苦悩していたんです。
みんな「極真のどこどこ支部」で収まる器じゃないんですよ。だから正道会館は自由にやってもらうスタイル。各道場が独立採算で名前や肩書も好きにしていい。だから会長とか塾長、総長、館長がたくさんいます。人って自分が親方になった時に頑張るものじゃないですか。だから組織を伸ばすならそういうやり方がいいと思うんです。年に1回の全国大会で集まった時に支部長会議をして、各支部で支部長主体の大会を自由にやってもらっているんです。












