【石井和義の光と影♯5】1976年にサラリーマンを辞めて空手に専念し、極真会館芦原道場の関西地区総責任者となり、大阪・難波から始めた支部を神戸、京都、奈良、滋賀、岡山と関西一円に拡大。月謝だけで500万円を売り上げるようになっていました。

 当時、芦原英幸先生から「お金を銀行に預けちゃいけないよ。両替もダメだ。税務署が怖いからな」と言われていました。だから月謝の500万円は全部千円札。先生は四国から千円札が詰まったバッグを取りにくると「石井、重たいなあ」って。手伝いを申し出ても「いいよいいよ、俺の金だから」ってニコニコしていたのを覚えてます。

 その当時の月給は11万円。先生から「経費を使っていいよ」と言われていたけど、使われへんかった。少しでも多くのお金を芦原先生に渡したかったから。でも11万では大変なわけです。家賃を払って生活もしないといけないし…。それである時、先生に「給料を上げてください」ってお願いしたんです。

 そうしたら「お前も大変だしな…。でも大丈夫だよ。結婚式は俺が出してやるし、家も俺がちゃんとしてやるから」って。そこに「自分で稼いだお金で結婚式をしたいし、自分で稼いだお金で家に住みたいんです。だから給料を上げてくれませんか?」と返したら月給が1万円上がって12万円になりました。

 ま、1割上がったんだからいいか。午前中に青果市場でバイトしようかなと思案していたら、後輩が来て「芦原先生から『石井が金のことを言い出した。危険だから、これからは関西地区はお前たちでやっていけ』って」といい出したんです。「これはダメだな」と。一生懸命やっていたのに、信頼を得られなかった失望というか。

 後輩たちは「僕らは先輩が先生だと思っています。芦原先生がこっちに来られないようにして、これからは僕たちだけでやって行きましょう」って言われました。だけど、芦原道場は芦原先生の道場だから、それはおかしな話なんです。

 それで先生に電話したら「そんなんじゃないんだよ」って言われたけど、僕は「辞めます。自分で自分の人生をやっていきます」と。その2日後に四国から先生が飛んできて「ほかのヤツは全員やめていいから、お前だけでも残ってくれ」と言われたけど「もう無理です」と返しました。

 先生の性格は分かってます。1回そんなことがあった僕を許すはずがない。先生と話した結果、僕一人が辞めて残った後輩の給料を上げてもらえました。だけど後輩の中山猛夫だけは1年たったら、僕の新しい道場に来ることに。1年というのは「その間に次の指導員をつくってくださいね」という引き継ぎ期間でした。だけど…。

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