【石井和義の光と影♯4】サラリーマンとして働いていた1975年、極真会館芦原道場の夏合宿に出るために四国へ帰省しました。

京都支部で稽古する石井館長(右)
京都支部で稽古する石井館長(右)

 高校卒業後に大阪に出てデザイナーを目指しながらアルバイトの日々。ある程度社会の仕組みが分かったら「デザイナーになっても誰かに使われるんだな。それだったら使う側になりたい」と。それで事業家になって成功したいと思い、貿易商社に就職したんです。そんな中、仕事を休んで参加した合宿で芦原英幸先生から「大阪にいるなら、大阪で道場を出せ」と言われました。

 師匠の言葉は絶対なので「押忍」と即答。物件を探して、難波駅前に道場を開きました。結果としてすごいことになりましたよ。当時は「空手バカ一代」が大人気。当の芦原先生も登場していたこともあって、一度の稽古が200人くらいで入門者は1日に30~40人くらい来ました。多分、当時は「日本一生徒が多い空手道場」だったんじゃないかな。

 人気の理由? 大事なのは口コミです。来た人に丁寧に教えること。あのころの空手の先生って「拳ダコつくって、おりゃあ!!」みたいな人が多かったんです。そこで僕らは丁寧語を使って「こうですよ」「こちらへどうぞ」と普通の社会人としての気配りで一から教える。それが広まったんです。そんな道場はなかったですから。

 その指導方法は極真の中村忠さん、芦原先生、僕と伝わってきたものです。芦原先生も指導は丁寧でしたね。それで大阪なんだけど、先生譲りの東京弁で教えていました。怒るのではなくて「いいね、うまいよ。でも、こうしたらもっとよくなるよ」と合理的に指導していましたから、それが当時としては画期的だったと思います。

 そういう調子だから大阪だけでは道場に生徒が入りきらなくて京都、神戸…と支部を広げていきました。24歳の時、芦原先生から「働いてくれないか」と言われて貿易会社を辞めたんです。タイミングとしても良かったと思います。支部が増えて、あっちこっち教えないといけないし、芦原先生が関西に来ると、1週間くらい会社を休むことになっていたので。

 そんな状況なので、当時は月謝だけで月500万円以上の売り上げがありました。年間6000万円。さらに1回7000円の昇級昇段審査は大体500人受けて、それが年3回で約1000万円。計7000万円を先生に渡していました。少なく見積もっても5000万。辞めるまでの3年間で1億5000万円を先生のために稼いだことになりますね。

 僕の収入? 月給11万円でした。でも、それではさすがに生活が苦しかったので「給料を上げてください」と頼んだんです。そうしたら…。

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