【松本薫の野獣道(5)】高校は石川県内ではなく、東京の学校に進学することにしました。5歳から中学生まで、ずっと同じ道場で練習していたので「ここから出たい」としか考えていませんでした。そのためには「石川県を出るしかない」と思っていたときに声をかけていただいて、2003年に上京しました。

 いざ高校に入学してみるとギャップを感じましたね。みんなは「日本一、世界一になりたい」というモチベーションで取り組んでいましたが、私は「石川県を出たい」の一心だけ。「強くなりたい」という思いは、もう谷(亮子)さんに打ち砕かれてるので「無理だろうな」って思っていました。周りと意識が全然違ったこともあって、ずっと怒られていました。今思えば多分問題児でしたね(笑い)。

 例えば1分間に腕立て、腹筋、背筋などを自分の限界までやる練習で私は腕立てを約10回、腹筋も約20回して休憩みたいな感じでした。コーチには「お前は何をやっているんだ! 強くならないぞ!」と言われていましたが、私の限界は「筋肉痛にならない程度」でしたので「何でこの人怒っているんだろう、限界までやったよ、筋肉痛になるの嫌じゃん」としか思えなかったんです。

 みんなとは同じ意識レベルにはなかったので「何であんなに頑張るんだろう、気持ち悪いな」くらいの感じでした。だから柔道ノートにも同じことばかり書いていたので、先生に「あなたは本当に成長しないですね」と。でも「そりゃそうだよ、強くなりたいと思っていないんだから。同じこと書くしかないよ」みたいな(笑い)。

 そうなると柔道とは距離ができ、クラスの友達といる方が楽しくなってきましたね。そういう時って、不思議とそういう感じの友達が寄ってくるので(笑い)。友達と図書委員会に入って、遊んだりするのを繰り返していると、畳から遠ざかり、道着を着ることもなくなっていました。そして高校2年の秋、ついにクビになりました。

 それで金沢に帰ることになり「ヤバいな…」と思っていました。でも父も母もきょうだいも優しく「お帰りなさい」と迎えてくれました。むしろ「泣いていいんだよ」とまで言われちゃって…。つらいなんて、まったく思っていなかったけど、周りはそれぐらい心配していたんだよな、と初めて理解しました。そして地元金沢の高校に通うことになるですが、この転校が2つ目の転機になりました。