【ネット裏 越智正典】暦の上では立秋の8月7日、午前4時、早実、中央大監督宮井勝成氏が三鷹の病院で逝った。94歳。

 中央大、昭和58年卒業、東都審判、伊豆修善寺で地元の人たちに一生懸命尽くしている土屋伸司は「これで昭和は完全に終わりました」といったが多くの教え子や関係者の思いはこうであろう。

 昭和32年のセンバツで優勝。34年、不祥事件もあって東都2部で低迷していた中央大監督に招かれ、すぐに1部に復帰。38年秋、日大との優勝戦、8回4番末次利光(鎮西高)のランニングホームランで2対1。11季ぶりに優勝。勝ち進むにつれて中央大学生が続々学生席へ。優勝戦当日は1万5000人。青春の校歌斉唱は神宮球場によく映えた。ちょうどこのとき、巨人は、監督川上哲治の猛練習の真っ只中で、39年、キャンプ、オープン戦、公式戦と1日も休みを設けず、6月9日を初めて休日にした。捕手藤尾茂は長男の厚くんと厚くんの少年野球の仲間を連れて横浜の山下公園へ。内野手滝安治(関東学院大)は、日比谷のロードショーへ。川上は練馬区立野町の(当時)中央大のグラウンドへ練習を見に行った。もちろん、宮井に挨拶している。末次をONにつづく5番打者として獲ろうと決心していたのだ(末次は40年巨人入団)。

 51年中央大卒、福田功は訃報に滂沱たる涙であった。のちに星野仙一の中日、阪神、楽天優勝の実際的に参謀になる福田功は、奈良県郡山高校で高校野球の名将、森本達幸に育てられた。森本が入部して来た選手にいちばんはじめに教えるのは“電車に乗って空席があっても決して座ってはいけません。あとから乗ってくるお年寄りやこどもさんのために空けておきなさい”。森本のノックは烈々だが、いたわりの名監督である。

 福田は母ひとり子ひとり。母親が入院。練習が終わると病院へ疾走。母親の氷枕の氷を一心に取り替えている姿を見て森本はチームを預けられる…と正捕手に抜擢した。宮井は森本の話をじいっと聞いて中大に迎えた。

 福田はいう。

「宮井監督はこう投げこう打てなどとは言いませんでした。いつも黙って見ているんです。チームにはかえって緊張が走りました。選手は自分で考え工夫しました」
 福田の見事なキャッチングが生まれる。

 合宿所ではごはんが余るとにぎりめしを作ってみんなに配っていた。福田は、抜擢された投手田村政雄(県立和歌山商、大洋、南海)とバッテリーを組み見事に闘い、韓国遠征の全日本に選ばれる。宮井は東都1部優勝8度、全日本選手権制勝3度。平成6年秋に勇退。勇退後も神宮球場のスタンドに。雨の日に傘もささないで見守っていた。

 センバツ優勝投手王貞治は「宮井監督が帰りに熱海に連れて行ってくれました。監督の友だちの旅館に泊まりました。みんなで温泉に入りました。あしたは東京駅からパレードがあるので理髪店へ行ってさっぱりして来た仲間もいました」。王貞治、誕生日前なので16歳。

 宮井はのちに笑っている。「早実の手当ては月7500円。家(吉祥寺)からタクシーで早実グラウンド(練馬区武蔵関)へ行き、帰りはバス。タバコを2つ買って帰ってくると、ちょうど5000円」。持ち出し監督である。 =敬称略=

(スポーツジャーナリスト)