【Gの裏方は見た!(1)】巨人の歴代スター選手を陰で支えてきた男が本紙に登場だ。伝統球団の打撃投手を16年間務め、昨季限りで退団した岸川登俊氏(47)が、名選手たちの知られざる姿を振り返る新企画「Gの裏方は見た!」がスタート。初回スポットを当てるのは、同じく昨季限りで巨人を退団したものの、いまだ新天地が定まらない村田修一内野手(37)。個人練習パートナーだったからこそ知る背番号25の苦闘の跡を明かす。
ファンに名を知られたスターほど、努力する姿を人に見せようとはしないもの。巨人での打撃投手生活16年間で、多くの選手たちが陰で努力する姿を見てきました。そのなかでも私にとって、村田は特別な思い入れがある選手の一人です。昨季終了までの約2年半、私は彼の個人練習相手を務めてきました。
きっかけは2015年シーズンの前半戦が終わるころでした。その年の村田は開幕から絶不調。当時の私はまだ現役だった由伸監督の個人練習相手を務めていましたが、その年から兼任打撃コーチとなった彼が突然、「岸さん、修一を練習に入れてもいいかな?」と言ってきたんです。
それから東京ドームで試合がある日はナイターなら午後2時の全体練習前に集合して3人の秘密特訓が始まりました。時間にすれば約30分ぐらい。由伸コーチが村田に指示した練習は、自らも晩年のルーティンに取り入れていた“ワンバン打ち”。1ケース約120球。緩くて弾む球をしっかり迎え入れて打つことで、打撃に重要な「間」を作るためでした。
村田は見かけによらず繊細な選手。由伸コーチは「アイツはいちいち耳に入れるとダメだから」って、集中が途切れないよう、立ち位置を変えながらじっと黙ってスイングを見ていました。練習が終わると「まだ肩の開きが早いな」とか、そっとひと言アドバイスする。毎日そんな感じでしたね。
由伸コーチが監督に就任し翌年以降は村田本人に頼まれ、2人だけの練習が始まりました。毎日同じ相手にワンバンの球ばかり投げ続けていれば、ちょっとした変化にも気付くものです。「今日はいい感じで振れているな」と思えば、本人だけでなく、由伸監督にも耳打ちするようにしていました。個人練習には顔を出すことはなくなっても監督は村田の状態を常に気にしていましたし、私は2人の橋渡し役をできればと考えていました。
困ったのは、村田の野球に対する生真面目さです。私のほうから「今日は疲れているようだし、練習量を少し減らそうか」とストップをかけることもしばしば。選手は試合でプレーするのが仕事ですから、練習で疲れさせるわけにはいきません。体調のチェックには気を使う選手でした。
結果的に16年シーズンの村田は打率3割、25本塁打と復活しました。2人で続けてきた練習が実を結び、私もうれしかったですね。だから去年の開幕オーダーから外れた時には、私も複雑な思いでした。その後も続いた個人練習では、彼の気持ちを奮い立たせるのに必死。後半からレギュラーに定着しましたが「今年は100安打に届いたら、修一の勝ちだよ。打率を気にしたらめいるけれど、安打数は着実に増えるから、一本ずつ積み上げていこう。それでまた来年しっかり勝負すればいいじゃないか」と、声をかけ続けました。
最終的に100安打に届き、村田も「岸さん、オレ勝ちましたよ」って話してくれていた矢先だったんですけれどね…。球団方針ですから仕方がありませんが、自由契約を通告されたことは驚きでしたし、ショックでした。ここまで移籍先が決まらないことも、不思議でなりません。私が言うのもなんですが、彼は「まだまだやれる選手」です。お互い巨人のユニホームは脱ぎましたが、村田が現役への思いを持ち続ける限り、私も何かしらの形で支えていくつもりです。
☆きしかわ・たかとし=1970年1月30日生まれ、東京都大田区出身。左投げ左打ち。安田学園高―東京ガスを経て1994年ドラフト6位でロッテ入団。その後はトレードで中日、オリックスと渡り歩き、2001年引退。プロ通算成績は87試合0勝4敗、防御率7・40。2002年に打撃投手として巨人入りしてからは高橋由伸、小久保裕紀、村田修一、長野久義ら主力打者の練習相手を16年間にわたり務めたが、17年限りで定年により退団。
【村田経緯】
10月13日 巨人から戦力外通告。鹿取GMは「FAではなく、自由契約の方が選択肢が広がる」と配慮があったと説明。村田は「正直、予想はしていなかった。現役でまだやりたい」。
10月16日 ジャイアンツ球場でロッカー整理。同僚たちにあいさつ。「この経験を生かして次に進みたい」
10月26日 ドラフト会議。その後も動きなし。
11月24日 巨人の納会に出席し「まだ野球がしたい。現役にこだわっていきたい」。納会ゴルフでは優勝。
11月28日 背番号25を岡本が継承することが正式に決定。
12月2日 自由契約選手として公示。
12月26日 新生児医療施設を慰問。「どこまで待つというのはいずれ決めていかないといけない。その時は辞めるという形にはなりますね」と引退も示唆。
1月7日 神奈川県内のグラウンドで始動。












