【豊田誠佑 おちょうしもん奮闘記(18)】1986年オフに星野監督が就任してから中日の雰囲気はガラリと変わった。ベンチでは背もたれに寄りかかっているだけで「勝負に集中していない」と監督から怒鳴られる。全力疾走を怠ったり、怠慢プレーがあれば、それはもうたいへんなことになる。戦う集団としての意識が徹底的に植え付けられ、前年5位だったチームは巨人に次ぐ2位に躍進した。

 だが星野監督はAクラス入りでは全く満足していなかった。オフには平野謙さんを放出して西武から右の先発投手・小野和幸を獲得。日本ハムとの間では大島康徳さんと大宮龍男とのトレードを敢行して大胆な血の入れ替えを行った。さらに“打倒巨人”を果たすため、本場・メジャーの野球を学ぼうと88年の2次キャンプは米国・フロリダのドジャータウンで行われた。

 米国キャンプで俺と相部屋となったのが高卒5年目の左腕・山本昌だった。山本昌は先輩への礼儀もしっかりしている好青年だったが、正直、プロの世界で活躍しそうな雰囲気は全くなかった。コントロールはまずまずだったけど球速は130キロそこそこしか出ない。大きな体を十分に生かし切れていないという印象だった。

 ドジャータウンでのキャンプもあと数日で終わりというとき、部屋に戻ってみると山本昌がえらく落ち込んでいる。山本昌はロサンゼルス・ドジャースとの野球交換留学生としてキャンプが終わった後もそのままアメリカに残ることが決まっていた。長くつらかったキャンプが終わって他の選手はみんな日本に帰れるというのに自分はそのままアメリカに残留して異国の地で野球をしなければいけないことが相当ショックみたいだった。

「1年間頑張れよ」。日本に帰るときに、そう声を掛けたが、山本昌が泣きそうな顔をしていたのはよく覚えている。だが、このときアメリカに残ったことが彼の運命を大きく変えた。山本昌はマイナーリーグ(1A)でプレーする中でスクリューボールを会得し、ローテーション投手として勝ちまくるようになったのだった。その情報は日本にも伝わり、星野監督はシーズン途中で山本昌を日本に呼び戻した。

 後半戦、先発投手としてマウンドに上がった山本昌は以前とは全くの別人になっていた。伝家の宝刀・スクリューボールはキレキレだし、コントロールも抜群。ベンチから見ていても自信タップリでどっしりとしている。「困ったら真ん中にスクリューを落としておけば大丈夫です」と言っていたが、その言葉通り、内野ゴロの山を築いて勝ちまくり、プロ入り4年間で未勝利だった男は後半戦だけで5勝を挙げた。

 山本昌の活躍もあって後半戦のドラゴンズは快進撃を続けた。2位・巨人を大きく引き離し、Vロードまっしぐら。そして10月7日、勝てば6年ぶりのリーグ優勝というヤクルト戦(ナゴヤ球場)を迎えたのだが、まさか優勝がかかったこの試合で星野監督があれほどブチ切れることになろうとは、誰も予想していなかった――。

 ☆とよだ・せいすけ 1956年4月23日生まれ。東京都出身。日大三高では右翼手として74年春の選抜大会に出場。明治大学では77年の東京六大学春のリーグ戦で法政のエース・江川から8打数7安打と打ちまくり首位打者を獲得。「江川キラー」と呼ばれるようになる。78年オフにドラフト外で中日ドラゴンズに入団。内外野をこなせるバイプレーヤーとして活躍し82、88年のリーグ優勝に貢献した。88年に現役を引退後はコーチ、スカウト、昇竜館館長を務め2014年に退団。現在、名古屋市内で居酒屋「おちょうしもん」を経営している。