元3冠ヘビー級王者で元PWF会長の“不沈艦”ことスタン・ハンセン氏は、新型コロナウイルス感染のため往年のライバル故ジャンボ鶴田さんの「23回忌追善興行」(5月31日、後楽園ホール)への来日が中止となった。本人は改めて来日を約束しており、一日も早い回復を祈りたい。
ハンセンは新日本プロレスでアントニオ猪木、全日本プロレスでは鶴田、天龍源一郎らと激闘を展開したが、まだ日本でトップを取る前の1976年には、WWWF(現WWE)で“人間発電所”ことWWWF世界ヘビー級王者のブルーノ・サンマルチノと一大抗争を展開。同年4月26日、ニューヨークのMS・Gでラリアートで発電所に頸部脊椎骨骨折の重傷を負わせるセンセーショナルな「伝説」を作り上げた。そして同年8月7日には、MS・Gでの金網デスマッチで壮絶な遺恨決着戦を行っている。
実はWWWFの殿堂であるMS・Gでは金網戦は厳禁とされていたが、75年12月に発電所が当時、遺恨が生じていたイワン・コロフと決着をつけるべく、ビンス・マクマホン・シニア会長に直訴。同会場初の金網戦で勝利を収めている。ハンセンには76年6月シェイ・スタジアムでわずか8分でリベンジを果たすも、約3か月ぶりのMS・G登場とあって、完全に引導を渡すという決意は固く、同会場2度目の金網デスマッチが決定した。ちなみに6月の試合後、ハンセンはファンにナイフで腕を切られるほど憎悪の対象となっていた。
英雄の復活を見るべく、実に2万5000人の大観衆が詰めかけ、地獄の金網デスマッチのゴングが鳴らされた。
「『ブルーノ、ブルーノ!』の大歓声を背に、サンマルチノが金網のドアを開け、四角いジャングルに足を踏み入れた。カギがかかった瞬間、ハンセンが襲いかかる。ルールも反則も無用、KOした方が勝ちだ。そのために先手を取ろうとしたのだが、サンマルチノは手の内を読んでいた。突進してくるところへパンチを一撃。加速がついているからたまらない。早くもマシンガンキックが火を噴いた。さらにアゴにエルボースマッシュ。金網をよじのぼって脱出を試みるハンセン。しかし王者はタイツをつかんで引きずり落とし、額にストンピングの嵐。ハンセンの金髪が赤く染まる。何度も金網を脱出しようとするが、そのたびにサンマルチノが額をこすりつけ、大流血だ。大の字になったハンセンを見てレフェリーがケージの中に入り、試合不可能と判断してサンマルチノの両手を高々と上げた。11分11秒、KO。ファンは酔いしれゆっくり引き上げるサンマルチノに拍手の嵐を送る。2分後にハンセンがやっと起き上がり、レフェリーに当たり散らして金網にぶつかり罵声を上げる。戦いの常とはいえ、あまりに無残な結果であった」(抜粋)。
完全なケンカファイトで引導を渡した発電所だが、結果的にはこの後にハンセンはいったんWWWFを去り、新日本に戦場を求める(81年に復帰)。本紙はこの日、すでにハンセンとタッグを組んでいた盟友“超獣”ブルーザー・ブロディがMS・G初登場を果たし、ケビン・サリバンを2分29秒でKOし、9月4日MS・Gでの王座挑戦が決まったことを伝えている。まだ知名度はなく「ブルーザー・ブロージー」と記されているあたりに時代を感じる。発電所のライバルが“交代”したわけだ。
75年の全日本初来日時は一介のパワーファイターだったハンセンはこの抗争で名を上げ、77年1月から新日本に参戦。同年9月2日名古屋ではアントニオ猪木のNWFヘビー級王座に初挑戦。全日本に正式移籍する82年1月まで、猪木と多くの歴史的名勝負を残した。 (敬称略)












