大熱狂の舞台裏で何が起きていたのか――。2002年5月31日に開幕した日韓W杯で日本代表が初の決勝トーナメント進出となる16強入りしてから、20年がたった。同大会でヒーローとなったMF稲本潤一(42=南葛SC)がインタビューに応じ、激動の戦いを振り返った。前編では世界に自身の名を知らしめた2ゴールの裏側と、日本中を騒然とさせた小泉純一郎首相(当時)との関係について言及した。
【稲本潤一インタビュー・前編】
――日韓W杯から20年がたった
稲本 あの大会の影響力は本当にすごいな…と感じています。当時はそれほどでもなかったんですが、今思うと自国開催ですごく貴重で価値のある大会だとわかるんですけどね。そんな大会で2得点を決め、自分をみんなに知ってもらえたし、知名度は上がりました。これまで3回W杯(2006年ドイツ、10年南アフリカ)に出たけど、02年大会以外のことは聞かれないですから。
――W杯では初の決勝トーナメント進出を果たすも、ベスト16止まり
稲本 共同開催で韓国がベスト4に行ったのは悔しかったですね。日本も上に行けるチャンスはあったし、勝てる力はあったと思う。ただ、僕自身は2試合連続(1次リーグ最終チュニジア戦、決勝トーナメント1回戦トルコ戦)で途中交代だったので。勝てなかったことより、その悔しさの方が大きかったです。
――W杯で2ゴールを決めたヒーロー。大きな反響があった
稲本 合宿生活だったので、それほどでは…。でも、たまたまテレビをつけたら僕の祖父がインタビューされていてびっくり。W杯ってすごいなと。試合開催地へ移動するとき、どこへ行ってもサポーターの皆さんが待っていてくれて…。どこで調べるんだろうって。今では絶対に見られない光景です。新幹線移動の時、スタッフが使う裏動線を使うこともあり、いい思い出ですね。
――ロシア戦でゴールを決めた後、当時の小泉純一郎首相に抱きついた
稲本 いやー、本当に人柄も良い方でわざわざロッカーまで激励に来ていただいて、それはうれしかったです。若さゆえ(当時22歳)に勢いのまま裸で抱きついてしまいましたが、今考えるとすごいことしたなって…。小泉首相は器の大きな方でした。もうね、今考えると、絶対できないなって思いますね。
――小泉首相の「感動した!」との名言も引き出した
稲本 それはゴンさん(FW中山雅史)でしたけど、チームはすごく盛り上がりましたよ。その時に、首相が「お前はゴールを決めた選手だな」っていう感じで僕のことを見つけてもらったので、ちゅうちょせずに(飛び込んで)行きました。周りの選手からは「お前ってすごいな」って言われましたね。今思うとあり得ないですけど…。
――大会中は静岡で約1か月の合宿生活
稲本(貸し切りで)一般の方がいない静かな環境だったので。集中してできたのはよかったですね。部屋は和室と洋室があって、僕は洋室だったので和室だった中田浩二の部屋へ泊まりに行ったことも。ミニ旅行? 外に出られなかったので、そういうふうにして合宿生活を楽しんでいました。
――当時の代表の仲良しグループは
稲本 食事のテーブルが同じだったので、中田浩二、ヤナギ(柳沢敦)さん、明神(智和)さんですかね。それで一緒に露天風呂に入ってました。ごはん中に「W杯本番でゴールを決めたらどうするの?」って話題になり「(ゴールパフォーマンスで)ET(人さし指同士を合わせる)やりますか」となったんですけど…。それがゴールを決めた時の、あの(人さし指を立てる)ポーズになってしまった。自分では話していたパフォーマンスをやっているつもりだったんですけど、映像を見たらETでも何でもなかった。何であーなったのか…。ゴールの瞬間に真っ白になってしまった。
――でもW杯を象徴するような印象的なシーンだった
稲本 あとはゴールを決めたら、明神さんに抱きつきにいくっていう話をしていたので、ベンチに向かって走っていったけど、明神さんはアップでベンチ付近におらず、自分の目に飛び込んだのは秋田(豊)さんでした。そのまま秋田さんの胸に飛び込みました。
――カタールW杯に臨む日本代表への期待
稲本 しっかりアジアを勝ち抜いて本大会を決めたわけですから、これからはW杯で勝つことを考えてやってほしい。これまでベスト16までしかいっていない。その壁を越えてほしいなと思いますね。
☆いなもと・じゅんいち 1979年9月18日生まれ。大阪府出身。97年に17歳6か月25日でJ1G大阪でトップデビュー(当時最年少)。2001年にアーセナル入りし、その後もガラタサライ、Eフランクフルトなど海外でプレーした。99年世界ユース選手権準優勝、00年シドニー五輪出場、02年日韓W杯から3大会連続出場。国際Aマッチ82試合5得点。今季から関東1部の南葛SCに所属。181センチ、77キロ。












