【山本美憂もう一息!(12)】結婚、出産を経て復帰した1998年世界選手権は残念ながら銀メダルでした。しかし、白血病が発覚しながら会場のあるポーランドまで応援に来てくれた母(憲子さん)は「悲しむことではないよ」と褒めてくれました。
最終日の夜に開かれたバンケットで父(郁榮氏)と珍しくはしゃいで踊った母。その後、私に直筆の手紙を渡してくれました。次のような内容でした。
「パーティーで子供みたいにはしゃいでしまいました。実は、その前にパパとホテルの部屋で病気について改めて話していたら、2人ですごく泣いてしまいました。そして、パーティーでは思い切り楽しんで、日本に帰ったら治療を頑張ろうと決めました。ママは治療を頑張ります。ここからがママの戦いです。美憂が頑張ったように、ママも頑張るから」。涙がこみ上げてきました。
帰国後から母の治療が始まりました。私も実家に戻る日を増やし、看病や家のことを手伝うようになりました。しかし病魔は母の体を次第にむしばんでいきました。入院し抗がん剤を打ち、病と闘いました。相当つらかったと思います。髪の毛も抜けてしまいました。でも、弱音を吐かず、いつも朗らかでいてくれた。母はとにかく怒らない人。否定的なこと、人の悪口は絶対に言わなかった。髪が抜けた頭にかぶる毛糸の帽子を黙々と編み、私たちにも帽子を作ってくれました。
父と母は、それまでも24時間一緒にいると言っても過言ではないほどの仲良しでした。母は日体大で仕事をする父の秘書のような感じで、原稿を代わりに打ったりするため、日中も父の研究室にいました。父を見習わないといけないと思ったのは、母への愛情です。入院生活が始まってからは、大学の授業はほとんど代講を頼み、ずっと母のそばにいました。母が「ミカンが食べたい」「ブドウを食べたい」と言えば「一番おいしいのを食べさせるんだ」とデパートの地下にある高い青果店に行って買っていました。どんなことにも心を込めて母に接していました。
こんなこともありました。闘病期間中、母と私だけ自宅にいた時、母のおなかが急に痛くなり、病院へ運ばれました。血相を変えて病院に来た父は、主治医からあまり状態が良くないという説明を聞かされたようです。父はショックのあまり急にあくびをたくさんして酸欠のようになってからフーッとイスに座り込んでしまったんです。父が死んでしまうのではないかとびっくりして「パパ! パパ!」と叫んだことを覚えています。
私たちにとってかけがえのない存在である母。本当に頑張りました。しかし99年、つらい別れの瞬間が訪れました。
☆やまもと・みゆう 1974年8月4日生まれ。神奈川県出身。72年ミュンヘン五輪代表の父・郁榮氏の影響で小2からレスリングを始める。87年に中1で女子初の全日本選手権を制覇(44キロ級)し、47キロ級も含め5連覇。同選手権では計8度の優勝を誇る。91年、年齢制限のある世界選手権に特例で出場し史上最年少の17歳で優勝。94、95年も世界を制した。2016年にMMAに転向し「RIZIN」で女子格闘技をけん引。3人の子を持つ母。156センチ。












