東洋の魔女レシーバー・松村好子氏が語る〝想像を絶するドラマ〟 1964年東京五輪で「金」

2020年10月14日 11時00分

【写真左】金メダルを手にする松村氏(枚方市役所提供)【写真右】ソ連に勝って選手から胴上げされる大松監督

【東スポ60周年記念企画 フラッシュバック(26)】秋晴れの下、1964年10月10日に開幕した東京五輪から早くも半世紀以上が経過した。そんな中でも“東洋の魔女”の愛称で親しまれた女子バレーボール日本代表の活躍ぶりは、今もなお人々の脳裏に深く刻まれている。なぜ、彼女たちは想像を絶する重圧を乗り越え、金メダルを獲得することができたのか。本紙連載「フラッシュバック」では、レギュラーとして活躍した松村(現姓・神田)好子氏(78)を直撃。金メダルロードの裏には、想像を絶するドラマが隠されていた。

 栄光までの道のりは決して平坦なものではなかった。当時の日本代表の大半は、大日本紡績貝塚に所属。午前中に仕事を行い、午後からは大日本紡績と日本代表の監督を兼務する“鬼の大松”こと大松博文監督のもとで、夜遅くまで練習に励んでいた。その中で、1960年の世界選手権決勝で敗れたソ連を倒すべく、大松監督が秘策として選手たちに命じたのは“回転レシーブ”の習得だった。

 松村氏(以下、松村)(大松)先生が回転レシーブをやれって言った。私たちは「できない」って言ったら「ワシはできる」って返した。「なら先生やってみてください」って言ったら「ワシはできるからお前らはやれ」っていうひと言で、私たちはワケ分からんところをコロコロひっくり返った。そして、それぞれが自分の回転レシーブを作り上げていった。私はボールの下に潜り込んで、回転しながらボールを上にあげた。そうしたら、ボールがどこに上がったか自分が回転しながら見えるし、回転が終わったときには次のレシーブ態勢に入れていた。

 個々の選手が我流で回転レシーブを身につけることにより、大松監督が掲げる「防御は最大の攻撃」を体現したチームが完成した。守りを極めた東洋の魔女は、62年の世界選手権決勝でソ連を下し、リベンジに成功。この大会で第一線から退くつもりでいた大松監督、選手らは有終の美を飾ったはずだった。

 ところが、事態は急展開を迎える。2年後に迫った東京五輪でバレーボール競技の採用が決定。一躍金メダル候補に躍り出た東洋の魔女たちに、日本中から多くの手紙や電話が届いた。期待が日に日に高まっていく一方で、大松監督は選手たちに現役を続行するかどうかの判断を委ねた。

 松村 私たちはやめるつもりだった。でも、正月にみんなが故郷へ帰るときに(大松)先生が「バレーボール協会や日本の皆さんは、東京五輪で金メダルを取ってくれっていう声が大きいから、続けるかどうかお前たちで考えてくれ。お前たちがやるなら、ワシもやる。家に帰ってみんなに相談してきてくれ」って言った。

 大松監督も辞任する意思を示していたものの、日本バレーボール協会らの関係者に周囲を固められ、東京五輪まで監督業を続けざるを得ない状況に追い込まれていた。だが、大松監督は選手らの結婚など、第2の人生のことを考えると、なかなか苦渋の決断に踏み切ることができなかった。それでも、年明けに主将で最年長の河西昌枝による「五輪までやります」のひと言で全員が覚悟を決め、2年後の東京五輪へ向けて再スタートを切った。

 松村(大松)先生に「今までと同じことをやっていたら、ソ連には勝てない。ソ連もこの間(62年の世界選手権)負けているから研究はしてくる。それ以上のことをやらなければ五輪で金メダルは取れない。それだけは覚悟してやってほしい」と言われた。だから練習は、今までは23時ごろに終わっていたのが0時、1時になった。先生の機嫌が悪くなったら朝の5時までかな。4月に入ってきた新入生がボール拾いをするんだけど、ボールを持ちながら立って寝ていたよ(笑い)。勝つために2年間は必死に頑張った。

 驚異の練習量で鍛え上げられた東洋の魔女は、満を持して東京五輪に挑むと、圧倒的な強さを見せて決勝へ駒を進めた。とはいえ、選手らの間で「もし金メダルを取れなかったらどうしよう。日本に住めないかな」と弱気な話をすることもあった。そこへ追い打ちをかけるように、10月23日のソ連との決勝戦の直前、お家芸の一つとされた柔道無差別級の決勝で、神永昭夫がオランダのヘーシンクに敗戦。まさかの銀メダルに終わった。

 松村 初めて五輪をテレビで見たときだった。練習に行こうと思ったらテレビがついていたので、座り込んで見ていたら神永さんが負けた。そこへ(大松)先生が来て「いらんもん見るな」って怒ったのだけは覚えている。先生に一喝されて慌ててテレビを消したので、何も考えることはなかった。だからよかったのかもしれない。

 一抹の不安が頭をよぎったが、大松監督のゲキで我に返った東洋の魔女は、ソ連戦で最高のパフォーマンスを発揮した。第1ゲームを15―11で先取すると、第2ゲームも15―8で奪い、勝利に王手をかけた。第3セットはソ連に粘られるも、大松監督の「お前ら何をやっとんねんや」のひと言で気を持ち直して、15―13で奪取。セットカウント3―0で勝利を収め、念願の五輪金メダルを手にした。

 松村 終わったときに、あー終わったって感じがした。金メダルを取れてよかった。ものすごく感動的とかじゃなくて、本当に取れてよかったって感じ。精神的に楽になったかもしれないけど、終わったなって感じは覚えている。あとはバレーをやらなくていいんだって思った(笑い)。

 プレッシャーに打ち勝ち、日本中を歓喜の渦に巻き込んだ東洋の魔女。彼女たちが築き上げたシンデレラストーリーは決して魔法ではなく、努力が生んだ成果のたまものだった。

 ☆まつむら(かんだ)・よしこ 1941年12月9日生まれ。大阪府出身。四天王寺高でエースアタッカーとして頭角を現すと、60年に大日本紡績(→日紡→現ユニチカ)貝塚へ入社。レシーバーに転向すると、2年目からレギュラーに定着した。20歳で出場した62年の世界選手権では、日本の団体球技史上初となる世界一に大きく貢献。64年の東京五輪でも大車輪の活躍を見せ、金メダルに輝いた。引退後はママさんバレーに取り組む一方で、事業でも大きな成功を収めた。169センチ。

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