全日本プロレス50周年記念大会となる18日日本武道館大会の3冠ヘビー級選手権(王者・諏訪魔対挑戦者・宮原健斗)の特別立会人として、元3冠王者で元PWF会長のスタン・ハンセン氏が来日する。不沈艦が数多くの激闘の思い出が詰まった武道館を訪れるのは久々となるだけに、王座を争う2人には激闘を期待したい。
1989年4月18日大田区でハンセンに勝って3冠を統一したのはジャンボ鶴田だった。鶴田はインターナショナルヘビー級王者、ハンセンはUNヘビー、PWFヘビー級の2冠王者として激突。鶴田が勝って初代王者となった。ハンセンが初めて3冠王者となったのは意外に遅く、90年6月8日まで時を要した。王座統一以前も鶴田とは2度(88年10月広島、89年4月後楽園)と統一戦を行ったが、いずれも引き分けで決着はつかなかった。天下の不沈艦にも3冠への道は容易ではなかったのだ。
ようやくハンセンが3本のベルトを手中にしたのは90年6月8日日本武道館の“人間魚雷”テリー・ゴディ戦。後輩であるゴディは6月5日千葉で鶴田から王座を奪取したばかりで、これが初防衛戦。千葉大会で不沈艦はゴディの相棒“殺人医師”ことスティーブ・ウィリアムスに全日マット初黒星を与えている。外国人同士の3冠戦は史上初でゴディは当時29歳。外国人選手の世代交代をかけた一戦でもあった。
『超満員1万4800人の大観衆が自然発生的なウエーブを繰り広げる。ゴディとハンセンが「3冠王座」と「外国人最強の座」をかけて激突した。ゴディの攻めは一貫性を欠いたが、ハンセンは3冠王座へひた走る。15分過ぎ、タックルをかわされるや振り向きざまにラリアート。この1発が明暗を分けた。ゴディは焦り不利な体勢からドロップキック、DDT、そしてパワーボムで勝負に出た。しかし焦ったぶんだけスキが生じ、ハンセンはしっかり腰を落として耐える。パワーボムを諦めたゴディがハンマースルーに振ろうとした瞬間、ハンセンは一歩踏み出すと見せかけ、クイックターン気味に振り向いて伝家の宝刀ラリアート。巨体を折り重ねて3カウントを奪った。ハンセンが3本のベルトを手にした瞬間、ウィリアムスが乱入。息を吹き返したゴディと2人でハンセンの額を叩き割って大暴れ。しかし全て後の祭りだった』(抜粋)
くしくもハンセンが初めて3冠を奪取した大会は、3冠戦がセミで、メインでは鶴田と三沢光晴のノンタイトル戦。ファンはむしろこの一戦に過剰なほどの期待を抱いていた。結局、三沢はバックドロップを浴びせ返し、初めて鶴田から大殊勲の3カウントを奪っている。当時、三沢は「プロレスに入ってから初めて泣いた」と語っていた。
90年4月には天龍源一郎らが大量離脱し、SWSを旗揚げ。全日本は大きな世代交代の波が押し寄せていた。ハンセンは3冠王者に君臨すると同時に、後に「四天王」と呼ばれる三沢、小橋健太(現・建太)、川田利明、田上明らに厳しい洗礼を浴びせ続け、何度も挑戦をハネのけては体で「強さ」を伝承していた。四天王はまだ全員が20代だった。「ハンセンやウィリアムスみたいなデカい外国人とやったから、皆鍛え上げられていった。体は心底しんどかったけどね」と後日、三沢は語っている。
ゴディは7月17日金沢で王座奪還するも、病気のため王座を返上。7月27日松戸ではハンセンが三沢との王座決定戦を制して、再度王座に君臨した。ようやくハンセンが三沢に3冠を明け渡したのは92年8月22日武道館だった。ハンセンは3冠の基盤を築き上げると同時に、大きな壁として後に「黄金時代」と呼ばれる四天王プロレスの土台を確立させる重要な役割を担っていたのである。 (敬称略)












