プロレスリングマスター”ことノアの武藤敬司が来春までの引退を表明した。いち早く引退ロードでの対戦に名乗りを上げたのが新日本プロレスのエース・棚橋弘至だ。

 棚橋はかつて武藤の付け人を務めており「最後に武藤敬司のマウントを取ること。それが元弟子としての最高の恩返しじゃないかなと思います」と自身が“引導”を渡す決意を口にしており、実現するかどうかに注目が集まっている。

 今から約13年半前の2009年1月4日東京ドームでは武藤と棚橋、初のIWGPヘビー級戦が実現している。武藤は02年に全日本プロレスに移籍。04年からは古巣にも参戦するようになり、08年4月には中邑真輔を撃破して1999年以来となるIWGPヘビー級王座戴冠を果たした。8月31日には史上初めて全日本マット上でG1覇者の後藤洋央紀を相手にIWGP戦を敢行。防衛に成功してこの年だけでも4度の防衛を敢行し、新日本マットを縦横無尽に暴れ回った。
 対照的だったのは棚橋だ。4月に全日本の「チャンピオン・カーニバル」で初参戦準優勝を果たすも「左膝前十字靱帯断裂および外側半月板損傷」の重傷を負い、長期欠場。満身創痍で臨んだG1では、わずか勝ち点4でAブロックで最下位。長いスランプ期間に入ってしまう。完全に武藤に水をあけられる格好となっていた。

 10月13日両国大会でも中西学に惨敗すると「今の俺、ダサカッコ悪い…。米国でカッコ良くなって帰ってくる!」との言葉を残して米TNAへの無期限遠征に旅立つ。長いキャリアでも、棚橋がここまで深刻なスランプに陥ったのは初めてだった。

 しかし09年1月4日東京ドームを迎えるにあたって、王座奪還は新日本にとって責務だった。当時の菅林直樹社長は米国まで出向いて「武藤からベルトを取り戻すのは棚橋しかいない」と説得。「1週間、時間をください…」と即答を避けた棚橋は1週間後に決意を固め、TNAの予定をキャンセルして帰国。11月18日に正式発表記者会見が行われた。立場は現在と全然逆だったわけだ。

 見違えるように精悍さを増した棚橋は「米国では光より速い速度で成長してきた。クソつまんない棚橋弘至は捨ててきた。ドームという豪華なシチュエーションで日米を股にかけるチャンピオンになる」と豪語した。

 そして迎えた09年1月4日のドーム決戦。棚橋はいまだ武藤には未勝利。両者にとって初のIWGP戦のゴングが鳴らされた。本紙は1面で詳細を報じている。

「棚橋は武藤の左ひざを攻め立てるも、逆に右ひざを断崖式、場外鉄柵越しなどあらゆるパターンのドラゴンスクリューを浴び、足4の字固めに捕らえられた。棚橋は右ふくらはぎの肉離れを起こしてしまう。しかし泥くさく武藤の攻めに耐え続けた。25分過ぎにはハイフライフローを狙うも閃光魔術弾を浴びる。だが新日本を背負う男は最後まで諦めない。月面水爆を回避すると全体重を乗せたハイフライフロー2連発。十八番で8か月続いた武藤政権に終止符を打った」(抜粋)

 通算3度目の戴冠。棚橋は「武藤敬司という存在があったからこそ(自分が)ここまで引っ張ってこられた。でもプロレスってそういうもの。誰かと誰かが戦って、それぞれの存在が引き上げられていく。プロレスは不滅ですよ!」と感無量の表情で語り、武藤は「ベルトを高めるためにまい進してきた。駅伝じゃないけど、この区間はしっかり走ったし、区間賞は取ったと思うよ。このタスキを棚橋に渡したということ。今日は棚橋が強かった。バトンタッチしたから、あとはあいつらだ」と武藤らしい表現で後輩を称賛した。

 その後、棚橋は史上最多となる通算8度のIWGP戴冠を記録し、新日本のエースに君臨。武藤はその後に戦場を変えつつもトップを走りつつ、最後はノアで現役を退くことになった。棚橋は挑戦表明した際、よほど印象に残っていたのか、13年前の言葉を引き合いに出しつつ「まだ、タスキを持ってそうなんで。全部渡してください」と笑顔を見せた。果たして最後の師弟対決は実現するのか。歴史的な「タスキ」の行方にも要注目したい。(敬称略)