猪木ご一行が市中パレードした沖縄返還前の異例興行 元東スポ記者・門馬忠雄さんが語る

2022年05月22日 10時00分

市内パレードに出発する猪木ら選手たち(67年10月、那覇空港、東スポWeb)
市内パレードに出発する猪木ら選手たち(67年10月、那覇空港、東スポWeb)

【プロレス蔵出し写真館】1972年に日本本土に復帰した沖縄が、5月15日で50年を迎えた。

 沖縄がまだ米国の統治下に置かれていた、今から54年前の1967年(昭和42年)10月15日、鹿児島から全日空の特別チャーター機(YS-11)で日本プロレスの一行総勢24人が沖縄の地に降り立った。プロレス開催は約3年ぶり。空港で約1800人のファンが出迎えた。

 琉球放送の特別番組に出演するジャイアント馬場、芳の里代表、ビル・ワット、ターザン・タイラーは別行動でテレビ局へ向かい、残ったアントニオ猪木、大木金太郎、キンジ渋谷、マッド・ラシアンらは那覇空港からオープンカーで市内パレードに出発した(写真)。

 那覇市の国際通りを経て首里、大山、普天間と回って決戦ムードをあおり、1時間半かけてコザ市(現在の沖縄市)の宿舎に到着した。夜は那覇市のホテルで沖縄ペプシ・コーラ主催の歓迎パーティーも行われた。
 
 16日の試合前、タックスフリーとあって、日本勢は国際通りへ買い物に繰り出した。時計が人気で、高千穂明久(ザ・グレート・カブキ)、マシオ駒がウォルサム、猪木はラドー、婦人用ロレックスを購入したのは馬場だった。

 試合は16、17日の2日間、コザ市松本闘牛場特設リングで行われた。入場料はリングサイド5ドル、準リングサイド3ドル、一般席は1ドルだった(当時のレートは1ドル360円)。

 この時期、沖縄は3か月1滴も雨が降らず、水不足で制限給水や断水まで行っていた。しかし、2日間の興行は雨に見舞われた。初日7500人(超満員)、2日目は6500人(ともに主催者発表)の観衆で埋まったが、「前売り券は売り切れだったから、雨が降らなければ8000から15000人は入った。プロレスが雨を連れて来た」主催者は恨み節だった。

 屋外での開催だったのは、沖縄に体育館がなかったから。米軍基地内には立派な体育館があったが、日本人が使える体育館は琉球大学の体育館だけ。高校には体育館すらなかった。

 この沖縄決戦を取材した東スポの記者は、現在評論家の門馬忠雄さん。54年前のことを覚えているだろうか?

「返還前の沖縄? プロレスのことはほとんど記憶にないなぁ…」と前置きして、当時のことを語ってくれた。

「空港に到着する直前、窓のブラインドを閉めるようアナウンスがあったね。俺はB―52(爆撃機)を見たかったんだけど…。隙間から少し見えた機体は、黒光りして不気味だったな。イミグレーションで…これは言いにくい話だけど、入国審査で星野(勘太郎)がかわいそうだった。長時間、足止め食ってね。彼は在日だったから…。あの元気者が寂しそうに背中を震わせていたな。差別というのを実感した瞬間だったね」そう明かし、さらに続けた。

「今でも強烈な印象として記憶に残っているのは…お土産屋か飲み屋かは忘れたけど、おばちゃんに『内地の人かい? 基地をお土産に持って帰ってね』と言われたんだよ。沖縄の人たちの願いを聞いた想いがしたね。返還から50年経っても変わってないのが辛いね」

 ところで、体育館のなかった沖縄には、返還された翌73年、立派な体育館が建てられた。プロレスファンにはお馴染みの奥武山体育館(現在は沖縄県立武道館)だ。

 74年には早くも新日本プロレスが2日間興行(11月12、13日)を開催し、猪木が〝アラビアの怪人〟ザ・シークとシングル2連戦を行った。

 体育館の名を全国に知らしめたのは、88年4月22日、藤波辰巳(現・辰爾)が起こした「飛龍革命」。猪木にビッグバン・ベイダー戦を直訴して、自分の前髪を切るパフォーマンスは語り草にもなった。この時、奥武山を「おうのやま」と読むと認識したファンも多かったようだ(敬称略)。

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