【プロレス蔵出し写真館】「ベイダー!」片ヒザをつき、マットに置いた甲冑に向って叫ぶと、勢いよく煙が噴き上がった。〝皇帝戦士〟ビッグバン・ベイダー恒例の試合前のパフォーマンス。

 縦位置にカメラを構えてファインダーを覗いていると、構図の中にアントニオ猪木の姿が飛び込んできた。猪木が奇襲のドロップキックを見舞ったのだ(写真)。これは今から33年前の1988年(昭和63年)7月29日、新日本プロレス東京・有明コロシアム大会でのひとコマ。時に猪木は突拍子もないことをやった。

 猪木とベイダーといえば、初対決での暴動騒動が今でも語り草だ。

 87年12月27日、東京・両国国技館でビートたけしのTPG(たけしプロレス軍団)の刺客として登場したベイダーとの一騎打ちを強行した猪木は、長州力戦を期待して会場に詰め掛けたファンの怒りを買った。

 長州組VS藤波辰巳(現・辰爾)組の試合で「やめろ」コールとともに観客からモノが投げられ、猪木はついでのような形で長州戦を行った後、ベイダーと対戦し169秒で瞬殺フォール負け。

 消化不良のファンは帰路につかず、会場を破壊した者も…。収拾を図ろうとリングに上がった猪木はマイクでひと言。「ありがとう」。火に油を注いだ。
 
「枠に収まらないのが猪木プロレスだったと思うんです。たとえ、暴動が起きたって、どうってことねえよって」。50年猪木を撮り続けた写真家・原悦生さんはそう分析する。

 ところで、翌88年から本格参戦してトップ外国人レスラーとなっていくベイダーは、89年に「スポーツ平和党」を結成して国政に打って出る猪木の、参院議員選挙への出馬表明会見に登場してエールを送った。

「これまでリング上で敵同士で戦ってきたが、私はミスター・イノキを尊敬している。イノキの大成功を祈っている」。戦いを重ねていくうちに絆が生まれていた。

「猪木さんが国会議員になって、いろんな国に行くようになる。各国の大統領に会って、キューバに行ってカストロ議長に会うって言うけれど、そんなに簡単に会えるのかな、と正直思いましたよ。でも、ついて行ったらすぐに会えちゃう。そして、友人になっちゃう。会うことはできても友人にはなれないでしょう。でも、それが猪木なんです」(原さん)

 さて、両雄の最後のシングル戦は、96年1月4日に東京ドームで行われた「INOKI FINAL COUNT DOWN」。ベイダーは開始早々、容赦なく52歳の猪木を攻め立てた。パンチの乱打、場外で机の上にボディースラム、そして投げっぱなしジャーマンが強烈に決まる。

 その後もコーナーを利用してボディープレス、ムーンサルトプレス。チョークスラムは力任せに投げつけた。カウント2.9でわずかに肩を上げる猪木。それでもコーナーからニードロップ、延髄斬りで反撃。最後は腕ひしぎ逆十字固めを決めギブアップを奪って勝利した。試合後、猪木の手を挙げ称えたベイダーに2人の信頼関係が見て取れた。

 この日、猪木の後に試合をした長州は、「猪木さんは死んでもいいというファイトをした。それを見て、レスラーとは何かを俺たちぐらいになると感じる。でも、俺はまだまだだよ」と語ったほどだった。この壮絶な死闘は、まさにプロレスの名勝負だった。
 
 時が流れ、18年6月18日に死去したベイダーは、WWEの22年殿堂入り選手になった。4月1日(日本時間2日)、米テキサス州ダラスのアメリカン・エアラインズ・センターで行われた式典では、甲冑が飾られた。

 79歳の猪木は、4日にツイッターで「1998年4月4日の引退試合からはや24年ですね。少しずつリハビリも頑張っています。ようやくサインペンで字が書けるようになりました。皆さんありがとーっ!!」とつづった。サインしたのは、原さんが先月30日に出版した448ページの単行本「猪木」(辰巳出版)だった。

 原さんは「猪木になろうと思った人がいたかもしれないんですが、誰も猪木にはなれないんです。凄すぎて、それが魅力的だったんでしょうね。」と振り返り「だから、今もたまに顔を見に行っているんです」と語った(敬称略)。