【追悼】ストロング小林さんは“会見乱闘”の先駆者だった! 猪木との調印式で大暴れ

2022年01月10日 10時00分

猪木にイスを振りかざす小林(74年12月、京王プラザ、東スポWeb)
猪木にイスを振りかざす小林(74年12月、京王プラザ、東スポWeb)

【プロレス蔵出し写真館】〝燃える闘魂〟アントニオ猪木と日本プロレス史に残る戦いを演じたストロング小林が、昨年12月31日に亡くなっていたことがわかった。享年81歳。

 小林は、今から50年前の1971年(昭和46年)、IWA世界ヘビー級王者としてカーチス・イヤウケア(=キング・イヤウケア)、クラッシャー・リソワスキー、マッドドッグ・バション、エドワード・カーペンティア、ディック・マードック、同門対決となるラッシャー木村ら、そうそうたるレスラーを相手に防衛戦を行った。

 73年11月9日に和歌山・勝浦町観光会館でワフー・マクダニエルに敗れるまで25回連続防衛を果たし、2年4か月にわたり国際プロレスのエースの座に君臨した。

 その後、王座を奪回した小林だが翌74年に突如フリー宣言。2月13日、東京・早稲田の喫茶店「ルナ」で会見を開きジャイアント馬場と猪木に挑戦を表明した。

 馬場は「全日本プロレスという組織に小林君が入るなら、対戦も辞さない」と含みのある発言に終始したが、猪木は2月25日、東京・南青山の事務所で会見し対戦を受託。大物日本人レスラー同士の対決に、プロレスファンは狂喜した。

 3月1日に京王プラザで行われた調印式は殺気立ったムードとなり、握手をかわした後、猪木は左手で小林の頬を平手打ち。小林は身構え、怒りを抑えて猪木をにらみつけた。

 さて、国プロの吉原功代表は3月8日に会見し、「小林を国際から除名しリングネームを剥奪、場合によっては契約違反で告訴する」と発表。これに対し大会を主催する東スポが仲裁に乗り出し、10日に小林と吉原代表の会談をセッティング。ここで〝昭和の巌流島決戦〟の実現が確定した。

 和解成立の要因は、東スポが国プロに1千万円の違約金を支払って小林を東スポ専属レスラーにしたことだったと、後年明かされた。

 3月19日、蔵前国技館で行われた試合(NWF世界ヘビー級選手権)は真っ向勝負となり、終盤、小林は猪木をロープ越しのブレーンバスター。そしてカナディアンバックブリーカー。猪木はロープを蹴ってリバーススープレックスで脱出し、バックドロップ。力なく立ち上がった小林は、猪木にバックを取られジャーマンスープレックスで投げられフォールされた。

 それでも猪木に「こんな試合を続けていたら10年持つレスラー生命が1年で終わってしまうかもしれない」と言わしめた。

 小林はその後、WWWF(現WWE)に参戦して時の王者ブルーノ・サンマルチにも挑戦するなど実績を残し、12月12日に蔵前大会で猪木との再戦が決定した。

 ヒゲをたくわえ、たくましさを増した小林は12月6日に行われた調印式で、握手が終わると先に手を出し、猪木に殴りかかり、イスを振りかざし殴打した。不意を突かれた猪木はすぐさま反撃を試みたが、関係者に制止され、小林はさっさと姿を消した。

 今でこそ珍しくなくなったが、この時の乱闘は激しく、驚愕した。この乱闘劇が〝プロレスの会見で乱闘〟の走りだったのではないだろうか?

 試合は、卍固めを決められた小林がギブアップせずレフェリーストップ負けを喫した。

 敗れた小林は、翌75年1月から新日本にフリー参戦し、その後、正式入団。猪木、坂口征二に次ぐNo.3として初期の新日本プロレスを支えた。

 腰痛を患い84年8月26日、福生市民体育館で引退試合を行った小林は俳優&タレント業を本格化させ、ストロング金剛として活躍。多くの人に親しまれた。

 それでも、あの猪木との一戦はいまだに忘れえぬ名勝負。ご冥福をお祈りします(敬称略)。

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