【豊田誠佑 おちょうしもん奮闘記(10)】1981年オフ、星野仙一さんご夫婦に仲人をお願いして結婚した俺は翌82年、レギュラー取りに燃えていた。ところが球団は新外国人選手として大リーグのケン・モッカを獲得。それまで俺が守っていたサードのポジションはモッカが守ることになった。それでもまだセンターが空いている。俺はキャンプから必死にアピールした。

 ところが3月に鹿児島・鴨池球場で行われたロッテとのオープン戦でアクシデントが俺を襲った。ロッテ・三宅宗源が投じたストレートが俺の右手首を直撃。当たった瞬間「ヤバい!」と思った。鹿児島から名古屋へ戻り病院で見てもらったが右手首は骨折していた。レギュラーをつかみ取る直前でのアクシデント。さすがに意気消沈したが、俺よりも結婚したばかりの嫁さんの方がショックを受けていたと思う。

 骨折が治るまで2か月ほどかかったが、その間に出てきたのが1つ先輩の平野謙さんだった。投手として入団した平野さんは肩も強く、バントもうまい。俺がいない間に「2番・センター」で開幕からスタメンで出場すると田尾安志さんとの1、2番コンビがばっちりはまった。田尾さんが出塁して平野さんが送り、モッカ、谷沢健一さん、大島さんのクリーンアップでかえす。この形が出来上がり、骨折から2か月ほどたって一軍に戻ってきた俺がスタメンに入る余地はなかった。

 しかもまだ右手首の状態が本調子になる前に無理して復帰したことが、まずかった。故障個所をかばいながらボールを投げていたら右肩痛になってしまったのだ。レギュラーになる夢はかなわず、状態も本調子ではない。正直、落ち込みそうにもなったが、俺も明治大・島岡御大の「人間力」で鍛えられた男だ。こういうときこそ声を出そうとヤジ将軍となりベンチで声を出しまくった。

 この年は開幕早々、エースの小松辰雄が故障でリタイアしたが、近藤貞雄監督を中心にチームはまとまっていた。ジム・マーシャル総合コーチ、高木守道作戦守備コーチ、権藤博投手コーチ、黒江透修打撃コーチとスタッフもすごい人ばかり。強力打線を中心に打ち勝つ野球は「野武士野球」と呼ばれ、首位を走る巨人を追走。夏場からは完全にドラゴンズとジャイアンツのマッチレースとなっていた。

 そして9月28日からナゴヤ球場で巨人との直接対決3連戦が行われた。首位・巨人とのゲーム差は2・5ゲーム。この3連戦に負け越せば優勝はかなり難しくなる。初戦の相手マウンドに立ったのはジャイアンツの大エース・江川卓さん。江川さんは前年20勝、この年19勝と最も脂の乗っている時期でうちの打線も苦手にしていた。だがこの試合でドラゴンズは奇跡を起こす。その口火を切ったのは「江川キラー」の俺だった。

 ☆とよだ・せいすけ 1956年4月23日生まれ。東京都出身。日大三高では右翼手として74年春の選抜大会に出場。明治大学では77年の東京六大学春のリーグ戦で法政のエース・江川から8打数7安打と打ちまくり首位打者を獲得。「江川キラー」と呼ばれるようになる。78年オフにドラフト外で中日ドラゴンズに入団。内外野をこなせるバイプレーヤーとして活躍し82、88年のリーグ優勝に貢献した。88年に現役を引退後はコーチ、スカウト、昇竜館館長を務め2014年に退団。現在、名古屋市内で居酒屋「おちょうしもん」を経営している。