【加藤伸一連載コラム】コーチ業でも貢献 01年には“最長ブランク”で球宴出場!

2021年07月16日 11時00分

13年ぶりに球宴出場も果たした
13年ぶりに球宴出場も果たした

【酷道89号~山あり谷ありの野球路~(40)】3球団目のオリックスでは1年目の1999年が6勝5敗1セーブ、2年目の2000年も3勝6敗と満足な数字を残せませんでした。しかし、様々な形でチームに貢献したという自負は少なからずあります。

 その一つが若手の育成でした。現役ながら投手コーチの河村英文さんに「コーチ業もやれ」と言われ、伸び悩んでいた小倉恒に戎(えびす)信行、左腕の金田政彦らにアドバイスを送ったりしていました。

 特に印象に残っているのは、プロ9年目の99年まで一軍未勝利だった戎です。英文さんに「このままなら戎は来年でクビになる。壊してもいいからシュートを教えてやってくれ」と押し付けられた格好でしたが、本人にも崖っ縁だという意識があったのでしょう。人の意見にも耳を傾け、がむしゃらに練習した00年は6月末から先発枠に入ってリーグトップの8完投で8勝をマーク。監督推薦で初の球宴出場を果たしたばかりか、最優秀防御率のタイトルまで獲得したのだから大したものです。

 たびたび二軍暮らしがあったことは不本意でしたが、実はメリットもありました。二軍投手コーチを務めていた佐藤義則さんから肩に負担のかからないフォームを教わったことです。簡単に言うと、胸を張ることなくテークバックからフォロースルーにかけて腰の回転で投げるというもの。活字で説明するのは難しいのですが、この新フォームは僕にピタリとマッチしたのです。

 00年シーズンが終わると、2年契約だった英文さんは「先に福岡へ帰るぞ」と言って退団し、看板選手だったイチローはポスティングシステムを使って米大リーグのマリナーズに移籍。チームは12年ぶりのBクラスとなる4位に沈んだこともあり、仰木彬監督には「短期間の活躍では困る。投げられれば戦力になることは分かっているから、来年は春先から頑張ってくれ」とハッパをかけられました。球団から「開幕一軍ボーナス」のニンジンをぶら下げられたこともありますが、移籍3年目の01年4月に4連勝と好発進できたのは、佐藤義さん直伝の新フォームのおかげでもあったのです。

 この年はダイエー初年度の89年以来、12年ぶり2度目の2桁勝利となる11勝を挙げ、5月5日のロッテ戦で通算1500投球回をクリアすることもできました。そんな中でも特にうれしかったのが、13年ぶり3度目の球宴出場です。

 当時は“最長タイのブランク記録”と話題にもなりましたが、僕にとって感慨ひとしおだったのはダイエー・王貞治監督の推薦で選ばれたこと。しかも登板機会を与えられたのは古巣の福岡ドームです。足かけ6年の単身赴任で何かと迷惑をかけてきた妻や子供たち、鳥取から駆けつけてくれた両親の前で晴れ姿を見せられたことは、長いプロ野球生活の中でも忘れられないシーンの一つとなりました。

 ☆かとう・しんいち 1965年7月19日生まれ。鳥取県出身。不祥事の絶えなかった倉吉北高から84年にドラフト1位で南海入団。1年目に先発と救援で5勝し、2年目は9勝で球宴出場も。ダイエー初年度の89年に自己最多12勝。ヒジや肩の故障に悩まされ、95年オフに戦力外となり広島移籍。96年は9勝でカムバック賞。8勝した98年オフに若返りのチーム方針で2度目の自由契約に。99年からオリックスでプレーし、2001年オフにFAで近鉄へ。04年限りで現役引退。ソフトバンクの一、二軍投手コーチやフロント業務を経て現在は社会人・九州三菱自動車で投手コーチ。本紙評論家。通算成績は350試合で92勝106敗12セーブ。

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