25歳で阪急の選手兼寮長になった西村正夫

2020年06月27日 11時00分

【越智正典 ネット裏】高松商業、関西大学の西村正夫が「大阪阪急野球協会」「阪急」に入団したのは昭和11年1月23日のことである。2月26日にあの「二・二六事件」、8月1日に第11回夏季五輪ベルリン大会が開会する年である。巷には「野崎小唄」や「すみれの花咲く頃」が流行っていた。

 阪急は巨人、タイガース、名古屋、セネタースに続いて職業球団5番目の発足である。当初、同じ私鉄の阪神電車のタイガースが、すでに昭和10年に第2号球団として誕生し、甲子園球場も立派だったので職業野球の経営には乗り出さないのではないか、と観測されていたが、社長小林一三が外遊先で断を下し、電報で球団創立と西宮球場の建設を指示した。

 昭和11年春、巨人は渡米遠征中であったが、日本職業野球連盟は6番目の大東京、7番目の名古屋金鯱で公式戦を開始した。その開幕直前、西村正夫は球団に呼び出された。

「キミは酒を呑まんそうだな。そうか。よし、寮長をやってくれ」。びっくりした。西村はこのとき25歳…。

 阪急の前身「箕面有馬電気軌道」は、明治43年に開業。大正7年、社名を「阪神急行電鉄」に。大正9年、神戸線が開通したがお客さんがいなくてキャッチフレーズを作って広告した。「ガラ空きで乗りよい電車」(大阪春秋9号 鈴木啓三氏)。その後、昭和のはじめの不況を乗り越え、私鉄の雄となるのであるが、慌ただしい結団で寮まで手が回らなかった。西宮の、車掌さんの仮眠所を合宿所にした。

 寮には女性にモテる豪傑巨砲がいた。夜、いるわけがなかった。一人は左打ち、第一神港商業、慶応大学、大連満州倶楽部、山下実。昭和11年、本塁打王(昭和62年殿堂入り)。ファンは山下に愛称を奉った。「ベーブ山下」「怪物」「怪ちゃん」。

 もう一人は右打ち。高松商業、慶応大学、東京倶楽部、兼投手・宮武三郎(昭和62年殿堂入り)。慶応時代、彼が打撃練習の打席に入ると、監督腰本寿(昭和42年殿堂入り)は全選手に守りに就くのを禁止した。あまりにもすさまじい打球に選手が負傷するのを案じたのだ(水原茂談)。戦前、東京六大学通算7号の本塁打王。長嶋茂雄が8号を放って記録を書きかえたのは知ってのとおりである。

 西村は俊足トップバッター。昭和16年公式戦終了まで6年間、盗塁失敗アウトが一度もなかった。お家芸は絶妙のセーフティーバント。昭和20年終戦。昭和21年、職業野球が復活。西村は阪急の監督に指名されると選手育成に取り組んだ。戦時下、若い選手が戦争に持って行かれる淋しさはこの上なかった。一軍に上がった川合幸三が育成第1号。西村は阪神、南海電車の偉いさんを訪ね「おたがいに選手にパスを出したら練習試合が出来ます」。「関西ファーム」が始まる。「関西ファーム」にじわじわと人気が出る。巨人は始祖西村に学んで多摩川巨人軍を作った。

 昭和36年、水原茂が東映フライヤーズの監督になると、水原に呼ばれてヘッドコーチ。高松商業の先輩に尽くした。東映は昭和37年日本シリーズで阪神を破って日本一になった。西村はいつもやさしい目をしていた。 =敬称略=