松坂のデビュー戦を巡り堤オーナーの指令を突っぱねた東尾監督

2020年06月25日 11時00分

松坂フィーバーは2年目も続き、球団職員が前後をガード

【球界平成裏面史(58) 平成の怪物・松坂の巻(5)】平成10年(1998年)ドラフトでの紆余曲折がありながら「平成の怪物」と称される甲子園のスター・松坂は西武に入団。東尾監督の望んだ“ライオンズのエースナンバー”「21」ではなく自らが望んだ背番号「18」を背負ってプロ野球選手としてのスタートを切った。

 当時の西武の春季キャンプ地だった高知・春野は連日ファンが大挙して押し寄せる大フィーバー。グラウンドからグラウンドへの移動時にはテリー・ブロス、デニー友利、石井貴ら先輩投手陣が松坂の周辺を護衛するSPのような編成で殺到するファンの間をかき分けて歩いた。

 松坂はキャンプ中盤に一度風邪による胃腸炎でダウンしたものの、プロ初キャンプを順調に乗り切り2月28日、春野で行われた阪神とのオープン戦に初登板。収容人員2万2000人だった春野運動公園野球場の前売りは早くに完売し、外野当日券の3000枚を求め多くのファンが試合開始前に列を作った。

 この“プロデビュー戦”に先発した松坂は、立ち上がりを内野フライ2つ、空振り三振の三者凡退で滑り出した。ところが2回に先頭の4番・大豊に対し2ボールとカウントを悪くしストライクを取りにいった3球目のストレートを豪快に右中間スタンドへ運ばれる“プロ初被弾″を浴びた。

 この時、松坂は「大豊さんのホームランは“ここでストライクを取りにいったらやられるかな″と思ったら本当にやられました」と淡々。あたかもプロの4番打者の力を試したかのような言動が、並の高卒ルーキーとは1年目の目標がまったく違うことを示していた。

 結果、2回を投げ失点はこの一発による1失点のみ。敵将の野村克也監督を「今日が初めてなんでしょ。紅白戦にも投げずに大したもんだ」と感心させた。

 しかし、この後、松坂はオープン戦3試合に登板し計4戦で1勝3敗、防御率8・76と結果が伴わず、フロントと現場が松坂のデビュー戦を巡って一触即発となる事態に発展してしまった。そもそも当初はこの年のドラフト1位候補ではなかった松坂を、西武が急転して指名に動いたのはグループの総帥・堤義明オーナーの鶴の一声から。その裏には「西武ドーム元年の集客の目玉」としたい意図があった。

 この年の開幕はその西武ドームのこけら落としとなるダイエー戦が4月3、4日の週末2連戦。その後は6日から東京ドームで日本ハム3連戦、9日からナゴヤドームでオリックス3連戦と開幕2連戦を逃せばその後の2カードはビジターという黄金ルーキーを本拠地デビューさせるには難しい日程だった。

 開幕前、松坂が最後の実戦登板となったサントリーカップ・横浜戦に登板し、6回を2安打1失点11奪三振と結果を出したことで、フロントは営業的メリットを第一に「4月4日の開幕2戦目デビュー」を強く主張。しかし、現場の責任者である東尾監督はここまでの「先発4、5番手」という松坂の仕上がり具合、対戦する相手投手と打線関係、マウンドの傾斜等を勘案してこのフロントからの要求を「4日は投げさせない」と突っぱねた。

 当時の西武グループではタブーとされていた堤オーナー指令に背き、最終的に同オーナーを「松坂は長く大きく育てることが大切」と納得させた指揮官の出した結論は、チームの開幕4戦目となる99年4月7日の日本ハム戦(東京ドーム)だった。 

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