「殺してやる!」と水原茂に飛びついた宇野光雄の思い出

2020年01月25日 11時00分

国鉄の監督を務めた宇野光雄氏(1960年)

【越智正典 ネット裏】初場所が始まると、私は戦前東京六大学の慶応の「百万ドルの内野陣」のひとり、名三塁手、1947年巨人入団の宇野光雄を思い出している。

 宇野はほかの場所は公式戦さなかなので見られないと、正月だけは毎年“場所入り”していた。砂かぶりで仕切りから立ち合いの一瞬が三塁守備に通じると勉強していた。ぶちかましのお相撲さんの写真もよく撮っていて体当たりの突進を研究していた。場所が終わるとキャンプ。キャンプではシコを踏み、守りの構えは仕切りのようであった。やがて公式戦開幕。宇野は打者が打席に入ると、打者の至近距離まで前進した。

 相撲といえば、空前の長距離打者、西鉄の三塁手、中西太は往時井筒部屋に朝稽古に行っていた。まわしをしめてぶつかり稽古。大きな柱に向かって鉄砲もやっていた。いまは野球の解析が進んだからなのか、時代なのか、他競技を見に行く選手は稀になった。

 54年、巨人監督、水原茂は明石キャンプが始まると、塾の後輩、宇野光雄を引っぱり出して猛ノックを浴びせた。知ってのとおり、水原も堅実強肩、慶応の三塁手である。宇野はたのしそうであった。「このヘボノッカー。もう一丁!」。あとになって私たちは水原の壮行ノックだったのだと気がついた。読売幹部が結団から5年目の国鉄のチーム強化の要請を受け、宇野の将来を考え、監督就任含みを条件に国鉄にトレードを決めていたのだ。練習中に通告された宇野は「オミズを殺してやる!」と水原に飛びついた。

 その夕方、宇野は神戸の街に消えた。翌日、巨人は練習休み。国鉄のキャンプ地鹿児島に赴く宇野を見送る選手はいなかった。

 巨人の悪戦苦闘が始まる。柏枝文治、岩本堯、広岡達朗。だれを三塁に持って来ても宇野が抜けた穴を埋められなかった。57年秋、長嶋茂雄を獲得してやっと愁眉を開くのである。

 56年、監督に就任した宇野は打倒巨人をかかげ、猛練習。国鉄は創立7年目で初めて4位に。3位中日との差は11ゲームではあったが見事だった。対巨人は4月8日から5月8日まで1分けをはさんで6連勝。セ・リーグは沸いた。

 シーズン対巨人は11勝13敗2分け。宇野は別府キャンプで鍛え上げた鵜飼勝美(享栄商)、年度打率2割5分6厘を巨人戦の4番に起用。鵜飼のヒットは決まってライナーで中前。5番には同2割3分8厘の佐々木重徳(明大)。彼も巨人戦になると打った。安打は同ライナーで中前。対巨人11勝は凄い。結団第1年の50年が巨人に3勝、51年4勝…のチームだったのだ。

 宇野は国鉄のあと大毎の監督。球界から退くと立川でビアホールを開いた。開店前のひる過ぎに訪れると「よーし、今日は臨時休業だ! みんな帰っていいぞ」。一人だけ残った店員がテーブルと椅子を片付け、ボールをころがす。ボールをつかんだその一瞬、宇野は左手首をひねった。倒れてもグラブからボールがこぼれないようにロックをかけたのだ。妙技の一端を拝見できたのはありがたく忘れられない。

 その後宇野とは早慶戦の神宮球場で会えた。ネット裏席にはいなかった。いつも学生席で後輩たちと肩を組み「若き血」を歌っていた。 =敬称略=