打たせないマシン――。そんな常識破りの発想から、世界最速250キロの剛速球を投げ込む“怪物”を生み出したのが、北九州市小倉北区の「三萩野バッティングセンター」代表の末松一英さん(59)だ。かつて海外を渡り歩き、オーストラリアでは翻訳会社を立ち上げた異色の経歴の持ち主。巨人からドラフト1位指名された横浜高・織田翔希投手が少年時代から通った場所でもある。世界最速への飽くなき挑戦や、織田投手への思いに迫った。

三萩野バッティングセンターの店舗外観
三萩野バッティングセンターの店舗外観

「このマシンだけは三振を奪うために作っているんです。打たれたら悔しい」。末松さんは笑いながら、世界最速にこだわる理由を明かした。

 2005年、当時横浜のクルーン投手が記録した日本最速161キロに対抗し、162キロのマシンを導入。しかし、ホームランの的に打球を当てる挑戦者が現れると、さらに球速を上げ、08年に230キロ、14年に240キロ、23年4月には250キロに到達した。「お客さんも一生懸命練習して、わざわざ遠くから来てくれる。打てるようになったら、その上を作ってあげないと」。挑戦者との真剣勝負が、限界への挑戦を後押ししてきた。

 開発の最大の難関は制球力だ。「球速を出すだけなら簡単だけど、ストライクゾーンに入らないと意味がない」。マシン室には必ずスタッフを配置し、打者の身長に合わせて投球コースを調整する。店長の武吉直美さん(33)も、マシン室で研修を積んだ。250キロのマシンは3日間のイベントでバネが最低4本も切れ、採算面でも厳しい。それでも安全性を最優先に、技術を磨いてきた。マシンマネジャーの前田清史さん(60)は勤続約30年。「音やボールのコース、時にはモーターのにおいでも異常を感じ取る。何より安全面に気を使う」と話す。末松さんも「彼がいなければ達成できなかった」と全幅の信頼を寄せる。

剛速球が破いたネットの穴を指し示す末松さん
剛速球が破いたネットの穴を指し示す末松さん

 1978年に父が開業した施設を継いだのは97年ごろ。海外に定住するつもりだったが、父の病気で帰国した。当初は2、3年ほど手伝い、再び海外へ戻る考えだったという。しかし、子供たちがバッティングを楽しむ姿に心を動かされた。「自分たちで企画したことを喜んでもらえて、また来てくれる。それが面白かった」。自身も高校時代にけがで野球を断念した経験があり、野球教室にも力を入れてきた。

 同センターに少年時代から通っていたのが、巨人にドラフト1位指名された織田だ。末松さんとは同じ北九州市立足立中学校の出身で、小学生のころから顔なじみ。中学時代には球速測定に挑戦し、軟球ながら2年時に120キロ、3年時には138キロを記録した。末松さんは「140キロを出すと言って一生懸命投げていたけど、肩を壊したらいけないから『もうやめとけ』と止めたんです」と振り返る。その人柄についても「本当に礼儀正しい。負けず嫌いで自信もあるけど、決しててんぐにならない。もっとうまくなりたいという気持ちが強い」と語る。横浜高進学後も帰省した際には顔を出していたという。

三萩野バッティングセンターで撮影された中3の織田翔希投手(提供写真)
三萩野バッティングセンターで撮影された中3の織田翔希投手(提供写真)

 メジャー挑戦の意向を示し、進路が注目される中、末松さんは「お客さんも日本に残ってほしいという声が圧倒的に多い。僕自身も、最初は巨人で何年かやってからアメリカに行くという道もあると思う」と本音を明かす。一方で「彼は意志が強い。考え抜いて決めたことなら、100%支持します。自分が思った通りの道に進んでほしい」とエールを送った。

 250キロのマシンでは昨年8月、埼玉県の常連客が初めてホームランを記録。達成者は今も1人だけだ。さらに速い260キロについても「250キロのマシンからホームランを打つ人が10人ぐらいになったら、間違いなく作ります」と宣言する。ただ、むやみに先を急ぐつもりはない。「お客さんとともに歩んでいかないと」。一度は数年で離れるつもりだったバッティングセンターは、今や人生を懸けた挑戦の舞台だ。「全てのお客さまに100%の満足を」。その思いを胸に、世界最速への挑戦はこれからも続く。

マシンの安全を支えるベテラン技術者の前田清史さん
マシンの安全を支えるベテラン技術者の前田清史さん