【多事蹴論110】“暴君”フィリップ・トルシエ監督はなぜ続投となったのか――。1998年フランスW杯で3連敗を喫した日本代表は同年9月、2002年日韓W杯に向けてトルシエ監督が就任。本命だったアーセナル(イングランド)を率いる名将アーセン・ベンゲル監督に断られたものの、同氏もトルシエ監督を推薦したことで、2年契約でチームを任せることになった。

 ただ98年9月に日本代表は再始動するも、トルシエ監督の指導は異質だった。練習で選手らを怒鳴り散らし、要求に応えられない選手を罵倒。常に上から目線で「言う通りにやればいいんだ」と有無を言わせなかった。ピッチ外でも横柄な振る舞いで合宿中の生活や食事にも細かな注文を付けた。指揮官の方針に選手らはブチ切れ寸前で「さすがにやりすぎ」「言葉の暴力」「宿舎でも気が抜けない」など不満の声が漏れていた。

 またトルシエ監督は日本サッカー界を痛烈批判し、特にJリーグとはスケジュール面などを含めて激しく対立した。川淵三郎チェアマンもあまりに理不尽な言動に「あいつは何さまだ」と憤ったことも。就任当初は「本大会ではベンゲル監督で、私はコーチ」と言っていたというが、暴走ばかりが目立ちサッカー界をかき乱した。その上でユース代表(現U―20)と五輪代表、A代表と3世代のチームを掛け持ちするも、A代表では結果が出なかった。

 日本サッカー協会の副会長でもあった川淵氏は「2000年くらいに代表監督をどうするのかという話が出て、当初『2年あれば…』と言っていた(新指揮官候補の)ベンゲルが『1年あれば十分だ』と言い出した。もう年俸10億円くらいの監督になっていたから(招聘は)ムリだろうなと思っていた。強化本部はいろいろやっていたようだけどね」と振り返る。

 その上で「トルシエをクビにしようかという話も出た。強化本部では西野(朗=G大阪監督)を擁立したい人がいて、裏でこそこそやっていたけど、うまくいかなかったみたいだ」という。当時は世界的名将ボラ・ミルチノビッチ氏など海外の大物からも日本サッカー協会にアプローチがあった。「結局、アフリカ(ハッサン2世杯、00年6月、モロッコ)でフランスに2―2と引き分けて、そこは何とか首がつながった」という。

 それでもサッカー界にトルシエ監督への不満がくすぶる中、同年にシドニー五輪とアジアカップ(レバノン)もあり「アジア杯ではベスト4に入れなければ解任することを決めていた。そこであいつは勝負して優勝するから悪運が強い」(川淵氏)。さらに4強入りのノルマが設定された01年のコンフェデレーションズカップも準優勝。岡野俊一郎会長の強い意向もあり、本大会もチームを託すことになった。
 (肩書は当時)