【多事蹴論107】日本代表の加茂周監督の更迭と岡田武史監督誕生の真相とは――。1998年フランスW杯出場を目指していた日本代表はアジア1次予選を突破し、97年9月から最終予選に臨んだ。勝ち上がった10チームが2組に分かれ、ホーム&アウェーの総当たり戦を実施。A、B組1位がW杯出場権を獲得。2位同士が第3代表決定戦を行い、負けたチームが大陸間プレーオフに回るものでアジア枠は「3・5」だった。
日本はグループBで韓国、UAE、ウズベキスタン、カザフスタンと同組。初戦はホームでウズベキスタンに快勝し、第2戦は敵地でUAEとドロー。迎えたホームの第3戦で韓国に1―2で敗れて1勝1分け1敗となった。その夜、大仁邦弥技術委員長は日本サッカー協会の岡野俊一郎副会長を通じて、川淵三郎副会長(Jリーグチェアマン)にアポイントメントをとった。
川淵氏は「(話を)聞きたくないと言ったんだけど…予想通りに監督交代についてだった。中田英寿が日本代表に入ってきてチームはガラッと変わったけど、加茂監督が対応できていないと…。負けた韓国戦にしても起用法の失敗で監督を代えないと、流れを変えないとW杯出場は難しいということだった」とし「でも日本はすぐに(第4戦のため)カザフスタンに出発して、そのまま(第5戦)ウズベキスタンで試合をする。入国して采配を執るにもビザの問題があるので新監督候補を連れていくわけにもいかない。それで“どうするのか”って大仁に聞いたら『(コーチを務める)岡田(武史)で行く』ということで『承知してください』と言われた」と振り返った。
敵地カザフスタンで迎えた第4戦は日本が先制するも終盤に追いつかれてドロー。試合後、大仁委員長と協会幹部らは緊急会議を開き、最終的に長沼健会長の決断で、加茂監督の更迭と岡田コーチの昇格を決めた。川淵氏は「岡田が引き受けるかどうかの問題もあったが、何とかやることになった。代行ではなく、最後まで岡田に任せるということになった。岡田は『ウズベキスタンに勝ったら別の監督を呼んでください。負けたら、最後までやります』と言っていた」と説明した。
第5戦のウズベキスタン戦は終盤に追い付いて引き分けとなり、岡田監督の“続投”。第6戦はホームでUAEにドローと自力で予選突破の可能性が消滅する。後のない日本はアウェーの第7戦で韓国に2―0で勝利すると、第8戦でホームのカザフスタン戦に5得点で勝ち、2位の座を死守することに成功。アジア第3代表決定戦でイランを下し「ジョホールバルの歓喜」で初のW杯切符を手にした。
川淵氏は「その間に岡田を代えようとかはなかった。出場権をとっても交代論は出ないし、本大会も岡田で行くということになった」としみじみ語っていた。 (敬称略)













