福岡を選び続けた男――。吉本興業福岡支社、1期生のお笑い芸人・田中健二(55)は、幼なじみのカンニング竹山、“戦友”の博多華丸・大吉と苦楽を共にしてきた。仲間たちが東京へ羽ばたく中、自身は地元に残る道を選択。テレビ、ラジオ、舞台、温泉、アビスパ福岡――。活躍の幅を広げながら、今も「まだ伸びしろがある」と笑う。その半生を直撃した。

那珂川をバックにポーズを決める田中健二
那珂川をバックにポーズを決める田中健二

 福岡市城南区で育った。兄同士が親友だった縁で、小学校入学の日に竹山と初めて顔を合わせた。「目立ちたいばっかり」だった少年は、小5で初めて同じクラスになると、北九州への工場見学へ向かうバスの最後部で「オールナイトニッポン」のまね事を始めた。「それぐらいでもう、お笑いやろうという話をしていました」。これがすべての始まりだった。

 芸人を目指して一直線だったわけではない。大学受験に失敗し、浪人生活に入ろうとしていた頃、新聞で見つけたのがテレビ公開オーディション「激辛!? お笑いめんたい子」だった。「オーディションとか受けとうない。竹山が気づかんでほしいと思っていた」と振り返るが、結局は応募することになった。予選通過後の顔合わせで博多華丸・大吉と出会い、「テレビに出たいのと、賞金10万円と沖縄旅行が欲しかっただけ」と笑う。本選で優勝したものの、当時は誰も芸人になろうとは考えていなかった。

 高校ではバンド「アウトサイダー」を結成し、ライブ前には2人でコントのような前説も務めた。転機はその後に訪れる。吉本側へお礼を伝えに行った際、博多温泉劇場へ連れていかれると、そのまま舞台へ上がるよう促され、「ター坊ケン坊」と命名された。気づけば吉本興業福岡支社の1期生として活動することになっていた。

 現在の仕事観は明快だ。「自分が出たいというのはないんですよ。店がよく見えるように、料理がおいしく見えるように」。主役は自分ではなく、店や人、料理。その思いは今も変わらない。

 50代で本名の田中健二へ改名した。きっかけは華丸からの助言だった。「ケン坊じゃ小遣いしか入ってこんぞ」。何度も聞き流していたが、大腸ポリープの手術後、酒が飲めない状態で改めて聞いた時、初めて胸に響いた。「50過ぎても何かに挑戦していることを発信しなさい」

 温泉ソムリエの資格も大きな武器になった。家族旅行では阿蘇の人気店「やま康」のあか牛丼を食べるため、近くの宿に泊まり、朝から整理券を求めて並んだ。「去年は食べられなかったんです。後から来た人に1番を取られたくなかった」。見事に1番を確保し、念願のあか牛丼にありついた。

 趣味のゴルフのベストスコアは92。「ドラクエみたいなんですよ。練習してレベルを上げて、武器を買って4人でパーティーを組んで敵を倒しにいく」。独特のゴルフ観にも田中らしさがにじむ。

 芸歴35年を超えた今も向上心は衰えない。「年々、技術が上がっている気がするんです。まだ伸びしろがあるんですよ」

アビスパ福岡のタオルをもつ田中健二
アビスパ福岡のタオルをもつ田中健二