【越智正典 ネット裏】来年が「東京オリンピック」という1963年の、長嶋茂雄の開幕戦の打撃はすごかった。
4月13日開幕の甲子園球場で、タイガースのエース・小山正明から1号、2号。はや2本のホームランを叩き込んだ。
4月14日は、力投の村山実から第3号。4月16日、広島・弘瀬昌彦から第4号。4月18日、広島の河村英文から第5号。4月22日、大洋の稲川誠から第6号。4月23日、再び阪神・小山正明から第7号…。
「来年は東京(五輪)だ。さあ、行くぞ」と言っていたが、長嶋は5月になってもまだ言っていた。
「バッティングというのは打つことではなかった。ボールをひっぱたくことなんだ。球の行方など知るか! どこへ飛んでいくか、そこまで面倒見きれないよ!」
いつもの年よりも本塁打のペースが遅かった王貞治が、4月16日の広島戦の大羽進投手からの第1号からホームランのピッチを早めた。
打ちまくる長嶋茂雄、波に乗った王貞治。巨人は壮絶なホームランチームになった。
このとき、アメリカではNYヤンキースの3番ロジャー・マリスがホームランを打ちはじめ、ペナントレース終盤に“世紀のホームラン王”ベーブ・ルースの、年60本塁打の大記録を破ることになる熱い戦いを4番ミッキー・マントルと開始していた。
このとき私は日本テレビにいた。日本テレビのアナウンス部長、赤木孝男には、今日までたくさんの指導をいただいているが、彼はテレビ局勤務の間をぬって、英語学校に通って勉強していた。NYでは両巨砲が、マリス、マントルから「M・Mキャノン」と命名されていたのであった。
王貞治、長嶋茂雄が打ち出したのは、そのころであった。日本では「デイリースポーツ新聞社」のデスクが「M・Mキャノン」にならって王貞治、長嶋茂雄をあかるくたのしく「ON砲」と命名した。
私には、この命名に関連してうれしいことがあった。私は実は、長い間、大阪の報知新聞社の南萬満記者がネーミングをしたものだと思っていた。
あるとき、尊敬する南先輩にばったり逢った。いい機会なので、いわれを聞いた。すると氏は言うのであった。
「私じゃーないですよ。デイリースポーツのデスクの命名ですよ」
私は南氏を尊敬してきて本当によかったと思った。誠を学んだ。 =敬称略=(スポーツジャーナリスト)












