【プロレス蔵出し写真館】巨人の終身名誉監督で〝ミスタープロ野球〟と呼ばれた長嶋茂雄さんが、3日に肺炎で都内の病院で亡くなった(享年89)。

 今から50年前の1974年(昭和49年)10月14日、後楽園球場で行われた長嶋さんの引退セレモニーで、「私は今日ここに引退いたしますが、我が巨人軍は永久に不滅です」。長嶋さんの名ゼリフはテレビで繰り返し流されていた。

 さて、引退した翌日の東スポ紙面を飾った長嶋さんの写真は「東京写真記者協会」のスポーツ部門特別賞を受賞した。ダブルヘッダーで行われた中日との第1試合が終了した後、長嶋さんが外野をゆっくりと歩き観客の声援に手を振って応える写真だ。

 撮影したのは名物カメラマンだった鈴木晧三氏。試合前、鈴木カメラマンがトイレで用を足していたところに、長嶋さんが入ってきた。当時は選手も報道陣も同じトイレを使っていた。

〝連れション〟している最中、「長さん、外野はすごい(人だ)よ。外野のファンも長さんを支えてきた」。鈴木カメラマンがそう言うと、「そうだな、いつも(外野には)背番号しか見せていないからな…」。長嶋さんがこうつぶやいたことで、外野に足を運ぶことを確信した鈴木カメラマンは、試合終了前にバックスクリーン裏の売店の屋根によじ登ってカメラを構えた。

 外野を回る予定はなかった長嶋さんがダッグアウトから出て来て、広報が止めるのを制して外野に向かった。ファンは泣いていた。「ファンを大事にしたミスター(長嶋さん)が外野に来ないはずがない」(鈴木氏)。直感を信じて撮れたベストショットだった。

長嶋さんは静かに、ゆっくりと外野を歩いた(1974年10月、後楽園球場)
長嶋さんは静かに、ゆっくりと外野を歩いた(1974年10月、後楽園球場)

 閑話休題――。

 プロレス界で長嶋さんと最も親しかったレスラーは誰だろう? ジャイアント馬場とは巨人時代からの旧知の仲だったことが知られているが…。

「ドン荒川さんでは?」。そう言うのは新日本プロレスの若手時代、SWSで荒川から話をよく聞いたという新倉史祐だ。

 荒川は新日プロで黒のロングタイツで試合をしていたことから〝前座の力道山〟として活躍した。一度引退したがSWSで復帰した。

 荒川は田園調布のサウナで長嶋さんと知り合い、定期的に食事をする関係になったという。

「サウナで知り合ってからミスターと気が合って、『荒川さん、一緒に行かない?』って家に電話があって、よくパーティーにも誘われてた。電話に荒川さんの息子が出ることもあって、『お父さんいる?』『誰ですか?』『長嶋です』って名前を名乗って、息子をあわてさせた(笑い)。荒川さんは長嶋さんのベンツの運転手、伊藤さんとも仲が良くて『ミスターが呼んでる』って、よく電話があった」と新倉は回想する。

「食事に行くと、会計のとき店の人は荒川さんをスポンサーだと思って伝票を持って行く。そしたら長嶋さんが『あぁ、それはこっちへ持ってきて』って、ミスターが毎回払ってた。長嶋さんはルイ・ヴィトンの財布を持っていたそうです」(新倉)

 荒川は91年(平成3年)3月30日に開催されたSWS「レッスル・フェストIN東京ドーム」大会のリングサイド最前列に長嶋さんを招待している。長嶋さんに、にこやかに応対する荒川の姿に親密さがうかがえた(写真)。

 この日のメインイベントは天龍源一郎がハルク・ホーガンとタッグを組み、アニマルとホークのロード・ウォリアーズとド迫力のファイトを展開した。

 長嶋さんは「体の大きさ、スピード、テンポの速さ、どれをとっても一流ですね。やっぱりメインの4人がすごかった。迫力がある」と感心しきり。数十年前に観戦して以来、3度目の生のプロレスを堪能したようだ。

 この年12月12日の東京ドーム大会にもリングサイドに長嶋さんの姿があった。荒川は長嶋さんの席の隣に座り、簡単に試合の即席解説をしていた。場外に転落したウルティモ・ドラゴンがあわや長嶋さんに激突!?と、ヒヤッとする場面があったが長嶋さんは〝動物的カン〟で難を逃れていた。

 新倉はSWSで長嶋さんと顔を合わせたという。「あいさつすると丁寧な対応をしてくれた」と語り、「荒川さんは『私の財産はお金でもなんでもない。ミスターと仲がいい。それが私の財産です』。長嶋さん本人を目の前にして、そう言った。それを長嶋さんはうれしそうに聞いていたそうです」

 新倉は長嶋さんと荒川を偲んで目を伏せた(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る