日本国民に愛されてきた〝お正月の風物詩〟東京箱根間往復大学駅伝(箱根駅伝)は2024年に第100回を迎える。タスキに込められた物語に心動かされた日本テレビの元スポーツ局次長・坂田信久氏(82)が大会の中継を熱望し、1987年の第63回大会からの実現に尽力した。その裏側では想像を絶する苦労の連続だった。

【箱根路がお茶の間に届くまで(3)】坂田氏をはじめとする日本テレビ関係者の取り組みは、結果的に箱根駅伝の窮地を救う形となった。1980年代、警察庁は全国で増加するロードレースの警備に不満を募らせ、箱根駅伝に対しても「中止かコースの変更」を迫っており、日本陸連副会長の河野洋平氏が「あと1、2年待ってほしい」と嘆願していた。

 ただ、日本テレビが87年の第63回大会から箱根駅伝の全国中継を開始したことで状況は一変する。レースはもちろん「今昔物語」を含めた放送は多くの視聴者から支持されるようになり、箱根駅伝の人気はさらに向上した。坂田氏は「多くの人が関心を持つイベントになったので、警察庁は強硬に排除することができなくなった」とうなずいた。

 全国中継は多くの相乗効果を生み出したが、数え切れないほどの苦労もあった。特に箱根山を舞台とする5区山上り、6区山下りの中継は難航した。坂田氏は「箱根の山を克服しなければ、箱根駅伝を中継したことにならない」。各大会で多くのドラマが生まれていた5区、6区の生中継を最重要視していた一方で、日本テレビの技術部門は難色を示していた。

 放送事故が起きると技術部門の責任にされてしまうため「200%大丈夫」という確信がなければ、首を縦に振ることはない。しかし、坂田氏はあきらめなかった。かつて米国で技術研修を経験した同期の大西一孝氏に相談したところ「不可能に挑戦することは面白いじゃないか」と二つ返事で承諾。未知なる挑戦が幕を開けた。