【多事蹴論(65)】“青い目をしたサムライ”が移籍を強行した真相とは――。ブラジル出身で1977年に読売クラブ(後のV川崎、現J2東京V)に入団し、89年に日本国籍を取得。日本代表の10番を背負ったMFラモス瑠偉は華麗なテクニックと激しい闘争心を武器にストライカーや司令塔として一時代を築いた。何よりも「義理、人情」を大事にし「日本人よりも日本人らしい」と言われた。
かねてチームカラーであるグリーンにあやかって「俺には緑の血が流れている」と公言するほどチーム愛を強調。Jリーグ発足の93年からV川崎を2連覇に導くなどクラブとともに日本サッカーを盛り上げてきた。しかし96年、シーズン序盤から成績が伸び悩むと、チームはネルシーニョ監督(現柏監督)を解任。後任にブラジル代表GKとしてW杯に4度出場したエメルソン・レオン監督を招聘し、チーム再建をもくろんだ。
しかし、このチーム方針に猛反発したのがラモスだった。内々に指揮官就任が決まったレオン監督を嫌悪。取り付く島もなく他クラブへの移籍を直訴した。そこで元日本代表監督の横山謙三氏がGMを務める浦和にレンタル移籍することで内定。自身を初めて日本代表に招集してくれた指揮官が支えるチームで再スタートするはずだった。
ところが、再び事態は急転する。ラモスの浦和移籍を知ったJリーグの川淵三郎チェアマンが「関西のサッカーを盛り上げてくれ」とラモスに懇願。すると、浦和入りを翻意し、Jリーグ昇格組で開幕から未勝利だった京都への加入を決断。日本サッカーリーグ(JSL)時代に日産自動車(現横浜M)で覇権を競った元ブラジル代表のオスカー氏が監督を務めていたことも“関西行き”を後押しした。
まさかの移籍に日本サッカー界は騒然となったが、ラモスはなぜレオン監督を避けたのか。それまでに指導を受ける機会などの接点はほぼなかった。「ミスターヴェルディ」とも呼ばれたように、クラブを愛するスター選手が退団を強行するほど嫌悪していたわけだが、ラモスを支えてきた故初音夫人によると、レオン監督は日本で大成功したラモスをこき下ろしたという。
清水を率いていたレオン監督は94年に解任されてブラジルへ帰国。著名なラジオ番組に出演した際、日本で活躍するラモスについて「彼は特別な選手ではないね。ブラジルには彼くらいの選手はたくさんいる。それに彼は性格に問題がある」など、差別的な言葉を交えて徹底糾弾したという。この発言を聞いた親族がラモスに報告すると大激怒。「ウソばかり。絶対に許さない」と絶縁を宣言したそうだ。
そんなラモス氏もレオン監督が96年限りで解任されると、97年夏にはV川崎に復帰。98年シーズン後にはV川崎から読売新聞が撤退するのと合わせて現役引退を決めた。 (敬称略)











