【和田京平 王道を彩った戦士たち】全日本プロレス和田京平名誉レフェリー(66)の連載「王道を彩った戦士たち」。今回はグレート小鹿(78=現大日本プロレス会長)との「極道コンビ」でアジアタッグの看板王者として活躍した大熊元司さん(享年51)の登場だ。
俺が駆け出しのころ、レフェリングを教えてくれたのが極道コンビ。タッチした、しないとか死角を突くとか、レフェリーとのやりとりがあるでしょ。米国で覚えてきたんだろうけど、基礎を教わった。
とにかくうまい人だった。背中は畳みたいだし、負けっぷりがいい。常に中盤の試合で「今日のお客さんをどう喜ばせるか」を考えていた。大昔に百田の義ちゃん(力道山の長男・義浩さん)を逆エビ固めでギブアップさせて勝ったのにゴングが鳴ってもほどかない。
仕方ないから「ワン、ツー、スリー」と反則カウントを数えたらファイブまでいっちゃってさ。リングアナウンサーが「裁定変わって大熊の反則負け」って。控室戻って「何であんなことしたんですか?」って聞いたら「お客さんが喜べばいいんだ」と笑ってた。あんなの最初で最後だよ。
新しい外国人が来ると(ジャイアント)馬場さんは、まず頑丈な大熊さんか小鹿さんを当てていた。(ブルーザー)ブロディが来た時も、大熊さんを簡単に投げ捨ててニードロップ決めたから「これは上で使おう」ってなった。乱闘の仲裁でいつも(スタン)ハンセンのラリアート食らって倒れるのは大熊さんか若手時代の三沢(光晴さん)。要するに受け身がうまい人間だけ。ハンセンも分かっていたんだね。
日本プロレス時代から馬場さんの付け人をやっていたんだけど、メチャクチャだった。大酒飲みだから、馬場さんの家に上がっては外国の高いウイスキー全部飲んで「おい元子(馬場さん夫人)、この家にはもう酒はねえのか?」と叫んだり。元子さんは「熊さんだから仕方ないよね」って笑ってた。馬場さんにはかわいがられていたね。
地方へ行けば酔っ払って隣のおっさんと仲良くなって勘定払わせたり、急に屋台を引いて走りだしたり、ハワイのビーチで焼酎飲んでポリスに怒られたり…。40年以上前には俺の結婚式で大暴れされたよ。そういえば米国遠征中にはプロモーターから予定表を渡されて「OFF(休日)」って書いてある日を「おっ、試合が組まれたぞ」と大喜びで「OFF」って町を地図で探したって。そんなの大熊さんだけだ。
俺の娘が6歳か7歳になったころ「子供の自転車が余ってるから持って行ってやる」と言って、五反田の家から俺の白金台の家まで自転車を自分で引いて持ってきてくれて、そのまま歩いて帰ったのは驚いた。誰からも愛される人だった。
これはあまり知られてないけど、その昔、アジアのベルトは長さが違ったんだ。アンコ型と背の大きい人用。極道コンビがその地位を確立した証明ですよ。
☆おおくま もとし 1941年12月18日生まれ。埼玉・草加市出身。大相撲を経て、62年5月に日本プロレス入門。同年6月5日、名古屋での北沢幹之戦でデビューした。72年の全日本プロレス旗揚げと同時に移籍。グレート小鹿との「極道コンビ」で76年から81年までアジアタッグ王座を4度獲得。晩年はジャイアント馬場率いる「ファミリー軍団」に対抗する「悪役商会」の一員として活躍した。92年12月27日、急性腎不全で死去。得意技はヘッドバット。全盛期は179センチ、130キロ。












