【気になるアノ人を追跡調査!野球探偵の備忘録】2012年シーズン限りでプロの舞台を去った元ソフトバンク・近田怜王氏(26)。報徳学園では1年時から本格派左腕として注目を集め、ドラフト3位で入団したが、わずか4年、22歳で戦力外。その後に活躍の場を求めたJR西日本でもすでにボールを置き、現在は同社の業務をこなす。そんな近田氏が短かった野球人生の舞台裏を明かした。
「高1の秋が自分のなかでは一番良かった。あそこが僕の野球人生の頂点ですかね。プロで活躍はできなかったけど、恵まれた野球人生だったと思います」。2006年秋、“怪物”と呼ばれた1学年上の中田翔(現日本ハム)に本塁打を浴びながらも近畿大会で強豪・大阪桐蔭相手に1失点完投勝利。一躍、全国区になった。だが07年、高2の夏に灼熱の甲子園のマウンドに調子を狂わされた。初戦の青森山田戦で熱中症を起こして7回途中降板。そのときはそれほど深刻ではなかったが、試合に敗れて、学校に戻った3日後の練習で突如意識を失った。
「医者からは目覚めなかったら植物状態だと言われたそうです。幸い3日間の入院で済んだんですが、そこからイップスになってしまって」。ボールを思ったところに投げられない。わずか5メートルでさえキャッチボールが届かない。一時はボールを握ることさえできなかった。そんな恐怖心を何とか克服して、08年の最後の夏は全国8強まで勝ち上がったが、一番良かったころの投球に戻ることはついになかった。
一度発症したイップスには、プロの世界に入った後も苦しめられた。ドラフト3位でソフトバンクに入団して、わずか4年で戦力外。3か月前に野手転向を発表した矢先だった。「覚悟はしていたし、驚きはなかった。4年で早いとか言われますけど、毎年戦力外になる人を見ていると、クビを切られるタイミングはなんとなくわかるんですよ。それに、これは本当に球団には申し訳ないんですが、野手転向は自分から言いだしたんです」
当時、戦力外を意識し、すでにセカンドキャリアを見据えていた。次に掲げた目標は指導者の道。そのための勉強として無理を言って野手のことを学ばせてもらったという。
「そろそろクビを切られるなと思ったとき、その前にちょっとでもプロの知識を吸収しておきたかった。バッティングはもちろん、守備や走塁の面でも、短い分、濃い内容を学ばせてもらいましたし、本当に感謝しているんです」
それでも「周りの声に後押しされて」トライアウトには臨んだが、結果を残せず、将来をにらんで大学進学を決意。その直後、JR西日本の後藤寿彦総監督から声をかけられた。「本気で大学進学を考えていて難しい時期だったので悩みましたね。でも、拾ってもらえたのはありがたかった。22歳で、ちょうど入社する大卒と同い年。そういう意味でも、恵まれていたんだと思います」。選手としてプレーを続け都市対抗にも出場したが、15年に現役を引退。その後、ヒザと肩を手術すると長年の疲労によって、すでにボールを投げることさえできない状態になっていた。
現在はJR三ノ宮駅のホームでの案内業務などをこなす。「いずれはJR西日本の指導者になりたい。でも、社会人野球では『野球人である前に企業人』。今は一旦、野球とは離れて(業務後は)資格勉強の毎日です。プロ野球選手のセカンドキャリアあっせん? 欲を言えばしたいですけど、将来、この会社で偉くなれたら、ですかね(笑い)」。早すぎた戦力外から4年。近田氏の第2の人生は、まだ始まったばかりだ。
☆ちかだ・れお 1990年4月30日生まれ、兵庫県三田市出身。三田市立つつじが丘小2年のとき「藍少年野球クラブ」で投手として野球を始める。報徳学園中では三田シニアで全国4強。報徳学園進学後、1年秋からエースとして頭角を現し、2年春夏、3年夏と3度の甲子園出場。3年夏にはチームをベスト8に導いた。2008年のドラフト会議でソフトバンクに3位で指名され、入団。だが一軍出場がないまま12年に戦力外。13年にJR西日本野球部に入部し、15年に引退。現在は同社の業務にあたる。177センチ、84キロ。左投げ左打ち。












