【東スポ60周年企画 フラッシュバック(15)】2003年5月、フランス・パリで行われた卓球の世界選手権は日本卓球界の歴史が変わる序章となった。14歳で初出場した福原愛が世界の強豪を破る大金星を挙げ、8強に進出。本紙創刊60周年を記念した連載「フラッシュバック」では、日本女子監督として福原を13歳から国際舞台に抜てきし、トップ選手に育て上げた名将・西村卓二氏(71)に成長の軌跡を前・後編の2回にわたって語ってもらった。前編は「お茶の間のアイドルがアスリートになった日」。“泣き虫愛ちゃん”の身にいったい何が起こっていたのか――。


 初戦に勝利した世界ランキング91位の福原は、5月21日の2回戦で優勝候補の同12位、リ・ジャウェイ(シンガポール)との一戦を迎えた。強豪・中国からの帰化選手でトップ中のトップ。1回戦で地に足がついていないと感じた西村氏は試合前、福原に徹底的に打ち込みをさせた。

 西村氏(以下西村)最後の試合になるかもしれない。「暴れてこいよ。思い切って自分の力を出せ。下がるなよ。台にピッタリくっつけ」と言って送り出しました。当時の福原はバックハンドだけは超一流。でも、背の高いリ選手に対して下がって打ったら意味がない。「ライジングをとらえろ」と。それをやったら、向こうがひっかき回され、おたおたした。甘いボールが来た時に、福原がフォアでぴしゃっと打つ。これが決まった。

 ベルシー体育館に詰めかけたパリの大観衆も、興奮を抑えきれない。14歳の少女のプレーに魅了され大歓声が上がった。

 西村 この時の福原はものすごく冷静。普段は勘で試合していたのに、ちゃんと自分で考えていた。「ああ、お茶の間のアイドルが、やっと競技者、アスリートになった」と思った。

 上位食いは止まらない。翌22日には同44位リュウ・ジャ(オーストリア)に完勝。23日、4回戦で同28位の李恩実(韓国)も4―2で下し、日本人最年少(当時)となる14歳203日でのベスト8進出を決めた。

 西村 普通は優勝候補に勝つと満足して、一発屋で終わるんです。でも福原は勝ち続けた。李選手との試合でも驚きました。李選手はペンホルダーの表ソフトでやりにくいタイプなんです。福原がサービスで構えて、パッとストレートに出したら、李選手は動けない。ノータッチエース。観客がどよめいた。「なんでできたの?」と聞くと「バックに回ろうとしているのが見えた」って。動物的感性です。福原のお母さんが同じ型のラケットで練習していて、動きが似ていたこともあったらしい。それでも、あの1万人以上が見つめる、たった1台のセンターコートで14歳がそれを決めちゃうんだから、度胸があるなと感心しました。
 準々決勝では同1位の張怡寧(中国)に完敗したが、ベルシーの観客は福原の大健闘をスタンディングオベーションで称賛した。

 西村「お客さんに手を上げて応えろよ」って言っても「恥ずかしいです」。だから私が腕を持ち上げました。旋風を起こしましたよね。私は「えたいの知れないエイリアンが、パリに降り立ち、強いやつらをなぎ倒した」と言ったんですが、本当に宇宙人だと思いました。

 西村氏が福原を最初に国際舞台に抜てきしたのは半年前、2002年秋の釜山アジア大会だった。日本オリンピック委員会(JOC)が決めた卓球の出場枠は男子5人、女子4人。それなら福原を加えて女子5人にしてほしいとJOCの松永怜一強化本部長にお願いした。

 西村「まだ子供ですけど、将来すごい選手になりますから」と言ったら「福原、知ってますよ。でもまだアジア大会に出る選手じゃないでしょ」と認めてくれない。半分怒ったふりをして部屋を出たら、後から許可が出た。芝居が効いたかもしれませんね。

 卓球の名門・富士短大(現東京富士大)で指導を始め、約30年が経過。日本代表を数多く送り出すなか、福原の才能に驚いたのは、「多球練習の鬼」と呼ばれた西村氏が指導をしていた時だ。1秒にも満たない間隔でボールを出す。それを打ち返す選手は体力も集中力も技術も必要。初心者レベルから五輪女王だった王楠(中国)にまで課したことがあり、実力がよく分かるという。

 西村 福原は13歳なのに、1時間でも泣きながら食らいついてくる。こんなにきつくやっているのに、まだ動くのかと。精神力、執念は普通ではない。将来世界チャンピオンになる逸材、日本の宝だと感じた。強かった日本が中国から王座を奪回するため、卓球界を盛り上げるためにも、福原を育てることが必要と思った。

 しかし、代表入りしたてのころ、福原はまだ子供だった。

 西村 釜山で試合前にアップさせようとコーチが捜しに行ったら「アメ食べてました」。“なんだそれ!”ですよ。カバンを開けたらお菓子ばかり。試合前にコーラを飲む。反省文はたった1行。世界選手権の前にも、ミーティングをしたら輪ゴムを指に巻いてバキュンって誰かを撃っている。「話を聞け!」って。話がつまらなかったのかな。天衣無縫ですよ。

 卓球の強化に加え、代表選手としての教育も施した。サポートされるありがたみや常に人に見られている自覚を促した。練習では厳しく叱ることもあったが、試合前は距離を詰めて励まし、お菓子を見つけてもあえて注意しなかった。

 西村 福原は凡人とは違う感性を持つ天才。だから試合の前に「こんなもの食べちゃダメだろ」って怒ると、ストレスになって、天才プログラムが狂ってしまう。指導者の仕事は選手の力を引き出すことですからね。それに試合前と練習でのコーチングは区別しないといけない。練習場ではある程度厳しく否定もする。でも試合前は肯定的な言葉掛けで気持ちを高める。男性が女性を教える場合、そのあたりは重要。ましてや相手が13、14歳ですから、結構気を使いました。

 ただし、日本の宝だといって、特別扱いはしなかった。4歳のころから国民的アイドル。福原はどこへ行っても、指導者も卓球界の重鎮からも「愛ちゃん」と呼ばれたが、西村氏は他の選手と同じように、あえて「福原」と呼んだ。

 西村「愛ちゃん」じゃ友達になってしまって、指導するうえでインパクトがなくなる。私は福原をよく怒りましたが、親御さん以外から怒られたことはなかったんじゃないかな。あの成長期には、怖い人が近くにいてちょうどいいのかなと。

 世界選手権の前には1対1の勝負強さを学ぶため、大相撲・武蔵川部屋の朝稽古も見学させた。緩急をつけた指導で、のびのびと成長した福原は、世界の舞台でベスト8入りするまでになった。1年3か月後には4年に1度の大舞台・アテネ五輪が控えている。競技者としてさらに階段を上がった福原が、また世間を驚かす瞬間は迫っていた。 (明日の後編に続く)