【東スポ60周年記念企画 フラッシュバック(24)】 日本柔道無差別級で3度目の金メダル挑戦となった1976年モントリオール五輪。壮絶なプレッシャーのなか、現講道館館長の上村春樹氏(69)は見上げるほどの猛者たちを制し、悲願の金メダルを手にした。本紙連載「フラッシュバック」は前編に続き、上村氏にインタビュー。64年東京五輪で頂点に立てなかった恩師・神永昭夫氏の教えを胸に、磨き上げた技で「柔よく剛を制する」を体現。日本に柔道世界一の称号を取り戻した日について語ってもらった。 

 モントリオールへ出発直前、神永氏に道場で投げの音を聞いてもらった。神永氏は「よし、いい音だ。大丈夫だ」と太鼓判。上村氏は自信を深めた。「負けたら腹を切れ」「亡命しろ」という文字が上村氏の目に入る時代。負けは絶対に許されない。

 しかし、日本柔道は初日の重量級(93キロ超級)で前年世界王者の遠藤純男が銅メダルと足踏み。無差別級前日の軽量級(63キロ級)では、優勝確実と言われた南喜陽が2回戦で敗退してしまう。しかも上村氏は組み合わせで強豪揃いのブロックに。誰もが「世界で勝てても五輪で勝てない」という無差別級のジンクスが頭をよぎったが…。

 上村氏(以下上村)私は「よし、やってやろう」と思いましたよ。「俺が強い」と自分に思い込ませるのがうまかった。それに私は負ける要素が少なかった。投げられない自信がありましたから。もともと強豪の明大で先輩たちに投げられ続け、受けが強くて「ザ・ガードマン」というあだ名が付いたほど。投げられなかったらあとは投げを工夫すればいいと、変な発想があった。

 7月31日、初戦の相手は北朝鮮のパク・チョンキル。組むと、上村氏の顔の前にへそがあった。

 上村 身長213センチ。本当はもっとあった。レスリング勢が選手村食堂で見て「ありゃ、絶対に勝てない」と言う。私は174センチ。無差別級でも計量があって、韓国の審判が103キロの私に「なんで無理するの。減量したら簡単に優勝できるじゃないか。後ろを見てみろ」とパクを指す。慌てて体重を見に行ったら169・9キロ。前年に戦った時より20キロ近くも体重が増えていた。前年は体落としで投げて押さえ込んで勝った。でも大きくなっていたし、強くもなっていた。大きすぎて押さえ込みは片方の手が畳につかず、グラグラで危ない。とにかく、背負いで投げ続けた。最後に相手にガッと抱き込んだ大内刈りでバンと倒した。 

 3回戦にも勝ち、迎えた準決勝。相手は最大のライバル・ソ連のチョチョシビリだ。1972年ミュンヘン五輪軽重量級(93キロ級)王者で、体を大きくしてきた。身長190センチ、ベンチプレス200キロの怪力。前年の世界選手権で、裏投げを食らい頭から真っ逆さまに落ちて気絶。勢い余って後頭部から落ち、同じく気絶したチョチョシビリを上村氏が無意識に押さえ込んで勝つという壮絶な試合だった。因縁対決となった五輪。「ザ・ガードマン」は投げを封じる極意をさらに磨いていた。

 上村 ビデオなんてない時代。人の試合をじーっと見て研究すると、技をかける時にみんな必ず癖があることに気が付いた。顔を振る人、口を動かす人…。ちなみに山下(泰裕)は足をこする。相手が技をかけようとするその時に、相手の胸元に置いた手首を返してパッと押すと相手はバランスを崩されて技をかけられない。チョチョシビリ戦も、最初の払い釣り込み足だけで、あとは1回もかけさせませんでした。後にチョチョシビリに「不思議とあの時だけ技がかからなかった」と言われました。私は「お前がかけなかったんじゃないよ。俺がかけさせなかったんだ」と返しました。

 チョチョシビリはその13年後の89年にプロ転向し、4月24日に新日本プロレスに登場。アントニオ猪木戦でKO勝ちを収めた。猪木にとってこれが異種格闘技戦唯一の黒星となったことを思うと、上村氏の巧みな技術のすごさがわかる。

 手首の使い方は、師匠・神永氏からヒントをもらった。研究肌の上村氏はこれを発展。「東京、大阪以外では世界や五輪で勝てない」と反対されながら就職した旭化成のある宮崎・延岡で、両手首を自由自在に操れるよう黙々と特訓した。

 上村 銭湯でカーッと手を動かしていると、隣のおじいさんが不思議そうに見ていました。力を入れたり抜いたり、グッと抜いてサッと入れるとかね。延岡では夜は暇だったから、ずっと技の研究。常に「みんなもっといい練習をしているかもしれない」という危機感があった。もし東京で就職して、毎日明大の練習に行っていたら「今日もいい練習ができた!」ってビール飲んで終わっていたかもしれない。

 決勝はレムフリー(英国)に崩れ上四方固めで一本勝ち。日本柔道の面目を保った。金メダルを持ち帰った教え子に恩師・神永氏はひと言「よくやった」と言って迎えた。

 上村 褒められたのは後にも先にもこの1回だけです。全日本王者になっても「ここを、もう少しこうだな」と何か言われていましたからね。

 上村氏が学生だったころ、神永氏は東京五輪の敗戦について「一生懸命戦ったんだから、それを受け入れないといけない」と淡々と話していたという。それでも自分の教え子に悔しさを晴らしてほしいという思いはあったはず。まったくの無名の高校生だった上村氏を見いだし、明大にスカウト。将来、この少年がやってくれるという予感が神永氏にはあったのだろうか。

 上村 どうでしょうか。ただ学生王者になった時、神永先生は「俺の目に間違いはなかった」と言われたらしいです。確かにいつも私をしっかり見てくれていた。(64年東京五輪中量級金メダルの)岡野功さんに一度「上村は気が弱いから」と言われた時、神永先生は「岡野、外見で人を判断するなよ」と言った。確かに私は一見、おっとりして見えますが、先輩でもにらみ倒すほど気が強いし、負けず嫌い。大学で寮の柿の木にチューブを巻いて、組み手で最も大事だと気が付いた釣り手の練習をコツコツやっていることも神永先生は知っていた。大学でレギュラー寮に入れてもらえなかったのは、無名の高校生では潰される、お山の大将でやらせようという配慮だったのでしょう。五輪前に聞いてもらった投げの音だって、本当に良かったのかは分かりません。もし悪くても、神永先生は迷いをなくし、自信を持たせるために、いい音だと言ったと思う。とても考えている方。そうやって見てもらっていたから、私はのびのびとやれたと思います。

 東京五輪から12年、恩師とともにつかんだ五輪無差別級金メダル。歴史に名を刻んだ瞬間だった。

 ☆うえむら・はるき 1951年2月14日生まれ。熊本県小川町(現宇城市)出身。小学5年で柔道を始める。明大に進学し、73年に旭化成に入社。同年4月、全日本選手権優勝。75年世界選手権ウィーン大会無差別級優勝。76年モントリオール五輪金メダル。引退後は指導者に転身。日本代表監督として88年ソウル、92年バルセロナ五輪を率いた。JOC常務理事、強化本部長、全柔連会長などを歴任。国際柔道連盟(IJF)理事。現講道館館長。